西川口キリスト教会 斎藤 信一郎
マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない
ルカによる福音書10章42節
主イエスの傍でひたすらに話に聞き入っている妹マリアに対して、接待に忙しく働いていた姉のマルタは腹を立て、心を乱しながら妹に手伝うことを求めます。主イエスは「無くてならないものは多くはない。いや一つだけだ。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。(奪ってはならない)」(ルカ10:42)と語り、神の言葉に心を集中することの大切さを説かれました。
神への心の集中はなぜ必要なのでしょうか。それは人間の魂が地上の有限なものによっては決して満たされない存在として造られているからです。たとい全世界を手中に収めても、尚も人の心は満足しないのです。永遠なる神の愛が人の魂を満たす時にのみ、人は満足するように造られているのです。人間生命の根源である神に出会うと、自己中心的な愛(エロース)よりも高次元の、他者に自己を与える自己犠牲的神の愛(アガペー)が存在することを知り、アガペ-愛に生きる欲求が心に芽生えます。虚無的心の闇は神の光に包まれ、失望は希望に、不安は平安に変わります。生きる意味と喜び、生命の充実感が、虚無感よりも力強く生活の中に鼓動するようになります。神の実在に触れるとき、神の命との交流により、他者への寛容と善意、仕事への忠実、自分のみの快楽をむさぼることに対する自制心が生じ、奉仕を喜んでする思いが人の中に強められてゆきます。神への集中はこのような益を魂にもたらすのです。
ドイツの優れた神学者、ボンヘッファー教授は、祈りを重んじた人でもありました。著書『共に生きる生活』の中で述べている言葉を紹介します。「クリスチャンは一日の中で、一人でいるための一定の時間を必要とする。それは、次の三つの目的のためである。すなわち、(一)聖書を一人で読み、黙想するため、(二)祈るため、(三)とりなしのためである。これら三つのことは日々神の前に静まる時間の中でなされなければならないことである。」と述べています。私たちが覚えなければならない大切なことの指摘であり、反省を促す言葉です。