斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆前回からの流れ・・・7章11-17節で主イエスは大勢の群衆と共にナインの町に行き、一人息子を亡くしたやもめを憐れんで、その息子を生き返らせます。このことがきっかけで主イエスのうわさがさらに広まります。その話から今回までには多くの話がありますが、それらは省略し、大事な要点だけ説明します。主イエスは十二弟子に宣教方法を指示し、各地へ派遣します。その後、ペトロが主イエスこそメシアだと信仰告白したことをきっかけに、主イエスご自身の受難と死、また復活の予告をし、弟子たちにも自分の十字架を背負う覚悟について教え始めます。そして今回の直前箇所である10章の冒頭では、主イエスがこれから行くつもりでいるすべての町々に、36組、72人の弟子を先に宣教に派遣する話から始まり、宣教にあたっての具体的指示を与えています。その際に、彼らの宣教を誰も受け入れない町があることについて言及し、彼らが不信仰の結果として受ける裁きの厳しさについて預言しています。それを語る時の主イエスの内心は、悔い改めないことに対する怒りの感情からではなく、神の絶大な憐れみに気付き得ないままに、自分で自分の首を絞めている町と人々に対して、心を締め付けられるような思いで預言したものと受け止めることができます。今回の箇所の理解を深めるためにも、その10章の冒頭部を合わせて読むことをお薦めします
◆黙想のポイント
弟子たちが実行するように指示された福音宣教の難しさと、それにも関わらず彼らがそれを実行に移し得た信仰について黙想しましょう。
◆◆七十二人、帰って来る
10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。
>>>弟子たちは各地に福音宣教のために派遣されるにあたり、主イエスから「わたしの名を用いて宣教するように」との指示を受けたという記述はありません。それにも関わらず、彼らは何故主イエスの「お名前」=御名を使って宣教したことが、非常に重要であるかのように冒頭で語られているのでしょうか。その理由は、彼らが自分は何者なのかを正しく理解していたこと、そして誰に遣わされていたかを正しく理解していたからだと言えます。彼らに与えられていた福音宣教をするにあたっての具体的な指示は、現代に生きる私たちにとっても極めて理解に苦しむ、かつ実践困難なものでした(3節~11節参照)。今日、主イエスが弟子たちに指示したような仕方で実際に宣教できる人がどれだけいるでしょうか。自分自身の現実に照らし合わせて想像してみると、それが如何に非現実的であるかが理解できるはずです。主イエスの時代であっても、弟子たちに指示された福音宣教方針は、理解を超えたものだったはずです。それを実行に移せば、大変なことになるに違いないとおびえてしまうはずです。それでも弟子たちは、主イエスの指示を実行に移すことを選び取りました。主イエスの言葉を信じ抜いて実践することを選び取ったのです。勇気を奮い立たせるどころのレベルではありません。自分たちには不可能としか思えないことをするように言われた弟子たちでした。従って、地方での病人や悪霊に苦しむ人々に向き合った時、このように彼らは宣言したのではないでしょうか。「私は主イエスの指示に従い、主イエスの言葉を信頼してあなたの病気が癒され、あらゆる悪霊による災いから解放されることを祈ります。」その信仰の従順が神の御業をもたらし、次第に彼らは「主イエスの名によってあなたの病気が癒されることを祈ります。」、「主イエスの名によって、悪霊よ、この人を解放せよ。」と確信を込めて宣教するようになって行ったことが想像できます。これこそ主イエス流の弟子の信仰の鍛え方だったのではないでしょうか。そして、主イエスの預言通り、一方では彼らの福音に耳を傾けず、一切何も持たない彼らに宿を貸すなどの憐れみを示さない町もあったということです。そのような体験をした上で、彼らは戻って、主イエスの名を信じて実行した時にどれほど絶大な御業を体験できたかを、感動を覚えながら報告したのです。
10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
>>>とてもユニークな表現です。サタンが電光石火の勢いでその支配力と影響力を失っていく様子が語られているようでもあります。また、人々がサタンの支配から解放されていくことを宣言している言葉のようでもあります。あなたはどのように解釈されるでしょうか。
10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
>>>この言葉はどのように受け止めればいいのでしょうか。確かに弟子たちはとてつもない権威を主イエスから授けられ、実際に実行し、そのすごさを体験したと言えます。そして、確かに彼らは害を受けず、主イエスのもとへ戻ったことが語られています。しかし私たちは、使徒言行録を読んでもキリスト教の歴史を見ても、数え切れないほどのクリスチャンが福音宣教において殉教する、という意味での実害を受けたことを知っています。ここで主イエスが宣言していることは、もっと別の深い意味があるのかも知れません。
10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
>>>「しかし」と主イエスは弟子たちの報告を聞きながら語ります。彼らの報告にまずは傾聴し、喜びを分かち合った上で、その次に喜ぶべきポイントが違うと教え始めます。このような動機を持つことは、むしろ弟子たちに害になるということでしょうか。そのような信仰姿勢を主イエスは禁止されます。そして、集中すべき、大切なポイントは別の所にあるというのです。福音宣教の目的とは、悪の諸勢力に打ち勝つことではなく、キリストが実行せよと言われた言葉を、どんなに実行が困難だと思えても、言い訳にせずに実行することにより、「キリストの福音宣教の御業に共に生きる」という、決して消えることのない記録が天に書き記されること。それこそが、真実に喜ぶべきことだであり、根本的に重要なことなのだと教えたかったのでしょう。常識では不可能と思えることを彼らが成し遂げた現実と、それをもたらした主イエスへの信仰こそ決定的に大事なことであり、主イエスご自身が心から賛美せずにはいられない出来事だったのです。
◆喜びにあふれる
10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
>>>主イエスが弟子たちに実行を命じた奇想天外かつ実行し難い福音宣教方針は、確かに幼子のような素直さが要求される内容でした。世の中の常識を適用すればするほど、尻込みして実行が困難になります。彼らがそれを実行に移せるかどうかは、どれだけ主イエスを信じ抜くか、信頼しているか、そして主イエスの言葉に自分の人生を掛けることができるかに掛かっていました。幼子は理屈抜きで、親の言うことを信頼して実行に移す実行力を持っています。そして、彼らは主イエスの期待に見事に応えたのです。
10:22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」
>>>難解な箇所です。ただ願うことは、イエス・キリスト=子が示そうと思う「者」の内に私たちが数えられたいということです。
10:23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。
>>>この節も疑問が多い箇所ですが、その場には他の大勢の群衆もそばにいたのでしょう。主イエスは宣教を実践した72人に思いを集中させて語ったものと想像します。いずれにしても、主イエスが心を込め、感動して語っていることが読み取れます。それほど今回の出来事には意味があったということでしょう。
10:24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
>>>これらの出来事を、それまでの聖書では語られることのなかった新しい福音宣教の時代の幕開けとして捉え、それを確信し、宣言しているような主イエスの言葉です。確信に満ちた信仰宣言のような言葉が心に響きます。