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主日礼拝宣教要旨

2019年2月3日(日) 礼拝宣教要旨 「絶望の中に希望を拓く」 詩編42編 1-6節

朴 思郁 協力牧師

「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。/神を待ち望め。/わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』と。」

詩編42章6節

 詩編42編は、詩編の第二巻の最初に当たる詩編です。この詩編で詩編記者は「鹿」という隠喩を用いて、現実を生きている人間の姿を描いています。その一つは、「わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は乾く」という表現に表されている「苦悩する人間」です。「苦悩する」とは、不信仰や空虚さに苛まれているような、否定的な意味ではありません。むしろ人間自ら人生における様々な事柄に対して、それらの「意味」を懸命に求めていることです。自分の人生に真剣に取り組んでいる姿なのです。
 もう一つは、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め」という言葉に示されている「希望する人間」です。私たちは「苦悩する人間」であると同時に「希望する人間」なのです。「希望する」とは、自分は何もせず、自然に心の底から湧いてくる感情ではありません。自分の意志を持って、意図的かつ意識的に身につけていかなければならない「心の姿勢」であると思います。それは空想や欲望を抱くことではなく、現実をしっかりと踏まえつつ、まだ来ていない未来を具体的に思い描くことと言えましょう。
 神学者エルンスト・ブロッホは、それを「デイドリーム(白昼夢)」とも言います。ブロッホの言う「デイドリーム」は、目覚めた状態で見る非現実的な体験という辞書的意味ではなく、まだ実現していないが、いつか訪れてくる「かの日」に向けて、今、ここで、懸命に生きていけるように牽引する原動力、それを「デイドリーム」と言うのです。まさに詩編記者は、「神を待ち望め」と、「デイドリーマー」すなわち「希望する人間」の姿勢を持つように促しています。
 人生の中には足元がおぼつかないと感じられたり、なんとなく不安感に襲われたりするときがあります。そのようなときにこそ、「わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。」と口ずさみながら、人生の道を歩み続けたいと願います。

Photo by Rodrigo Rodriguez on Unsplash

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