イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
マタイによる福音書3章16-17節
バプテスト教会は名前の由来であるバプテスマ(洗礼)を大切にして来た教派です。なぜそれほどまでに重要なのか。また儀式にはどんな意味が込められているのでしょうか。主イエスは宣教を開始されるにあたり、当時ヨルダン川で活動していたご自身の親戚であったバプテスマのヨハネの元へ出かけます。その際に主イエスは、自分がバプテスマを受けることが神の目に正しいことだと主張しています。17節でもバプテスマを受けた後に神の声が天から聞こえ、それが神のみ心に適う大切な行為だったことを裏付けています。主イエスの公の宣教活動はバプテスマに始まり、天に戻られる際にも、今度は弟子たちにバプテスマを託して地上での使命を終えています。
これほどまでに大切なこととして教えられているバプテスマにはどんな意味が込められているのでしょうか。バプテスマのヨハネは11節でその目的を「悔い改めに導くため」だと言っています。ここで語られる「悔い改め」という言葉は罪との関連で誤解されやすい言葉です。当初「十字架」という言葉も重罪人を残酷な仕方で処刑することを意味していました。しかし、主イエスの復活によって「十字架」が神の救いと希望を表わす言葉に変わっていきます。同じように、悔い改めという言葉も罪を悔い改めるという理解から、神のみ心に適う生活に絶えず聖霊によって軌道修正を導かれながら生きることを意味する言葉になったのです。ペトロの第一の手紙3章21節b「洗礼(バプテスマ)は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」がそれを裏付けています。今回の最後の箇所16節にはバプテスマを受けた主イエスに対して天が開かれ、聖霊の本格的な関わりが開始したことが示されています。これは主イエスを救い主と信じてバプテスマを受ける全てのクリスチャンに同じく開かれていくものです。この関係の中に招き入れられていることを感謝し、その祝福を共に分かち合っていきましょう。