斎藤 信一郎 牧師
わたしたちの負い目を赦して下さい、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
マタイによる福音書6章12節
ルカによる福音書では、主の祈りを聖霊との関わりで書いたのに対し、マタイによる福音書では、赦すこととの関わりで書いています。マタイは元々同胞のユダヤ人たちから嫌われる徴税人の仕事をしていました。罪人としてのレッテルを貼られていました。そんな彼を主イエスは無条件で十二弟子の一人に選び、用いられました。だからこそ、主イエスが祈っておられた主の祈りを赦しとの関連で書くように導かれたのでしょう。そこで、今回は罪と赦しに着眼しながら、主の祈りに聞いて参ります。
最初は9節の天の父の御名をあがめる祈りです。私たちが祈る時、神は一切の偽りを見抜かれるお方だということをわきまえ祈り始めることを励まされます。次は10-11節で、神の国と神の義(御心)の実現のために私たちが用いられることと、そのために必要な信仰の糧を求める祈りです。このように祈るためには、神の助けと神の御心を自覚し続ける信仰、そしてそれを本気で実行するほどの神への愛と献身の思いが必要です。それを特に意識しながら祈ることを導かれます。
ここまで祈ってくると、私たちはマタイ同様に、神に祈る資格や何かを要求できるような者ではないことを示されます。そこで私たちも12-13節のように、私たちの罪を赦していただくと同時に、私たちも他の人を赦す者となるための祈りへと導かれます。このように祈ることができるのも、11-13節の冒頭で「わたしたち」とあり、主イエスご自身が私たちと共に祈って下さっているからこそ、このように祈ることができることに気づかされます。
マタイは14-15節で、主の祈りの勘所についてもう一度要約しています。人の過ち、負い目、罪を赦すことは私たち自身の罪が赦されていることの保証です。「主イエス・キリストに十字架を負わせたことにより、罪をあがなわれている私たち」という信仰に立つ時、見返りを求めないで隣人を赦し、主イエスと共にすべての隣人のために主の祈りを祈る者へと導かれていくのです。
アイキャッチ画像 thanks to Gerd AltmannによるPixabay