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主日礼拝宣教要旨

2018年9月2日(日)礼拝宣教要旨 「『生きる』ための勇気」フィリピの信徒への手紙 3章13‐14節

西川口キリスト教会 朴 思郁  牧師

『わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのもの
を忘れ、前のものに全身を向けつつ、・・・・・・目標を目指してひたすら走ることです。』
フィリピの信徒への手紙3章13‐14節

 使徒パウロは、「獄中書簡」の一つであるフィリピの信徒への手紙を書いたときに、かなり厳しい状況に置かれていました。その手紙には、間もなく死刑にされるかもしれないという不安感、自分にはあまり時間が残されていないという焦りさえも感じられます。そのために本日の箇所は、パウロがこれまでの人生を振り返りながら、残された人生をいかに生きるべきなのか、真剣に考えているように思われるのです。
 パウロは過去との向き合い方について、「後ろのものを忘れる」と言います。それは、過去に起きたことをなかったことにする、「忘却」を意味するのではありません。いつまでも自分の経験した過去の栄光や失敗にとらわれないようにすることを意味していると思われます。そして「前のものに前進を向けつつ、・・・・・・目標を目指してひたすら走る」ことを勧めています。それは時間の流れに身を任せて、受け身として生きるのではなく、自分の人生の主体として、数々の出会いや出来事に誠実に向き合っていくことです。
 自分の人生の主体として生きるためには、「『生きる』ための勇気」が求められます。その勇気とは、まず変わりつつある状況に柔軟に対応できるように、自分の固定観念を変えていくことです。慣れ親しんだ自分の生き方に執着せずに、恐れずに、常に開かれた心をもって、新たにされていくことを受け入れることです。さらに、今の自分自身に信頼することです。これまで歩んできた自分の人生を大切にしつつ、それに基づいて、自信を持ってこれからの歩みを踏み出していくことです。
 何よりも大切な「『生きる』ための勇気」とは、神に徹底的に委ねることです。神学者パウル・ティリッヒは、「神を超えた神」に委ねることを促しています。言い換えれば、何かの「ために(because of)」私たちを受け入れてくださる「前者の神」ではなく、いかなる場合「にもかかわらず(in spite of)」私たちを受け入れてくださる「後者の神」に、私たちはすでに受け入れられ、生かされている、という安心感の中で生きることです。

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