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主日礼拝宣教要旨

2018年6月3日(日)礼拝宣教要旨 「こんな臆病者でも」士師記6章11-16節

 

西川口キリスト教会 朴思郁協力牧師

『主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」』士師記6章12節

 

聖書には、神に対する人間の「反逆」、神による「応報」、人間の「悔い改め」、そして神の介入による「救い」というパターンが繰り返されていることが記されています。それらの主題がいろいろな人々の姿を通して、様々な文学的ジャンルや技法を用いて描かれているのです。そのため、聖書の物語は、単なる遠い昔話ではなく、神と人間との間にある関係性が如何なるものかを示しているものとして、今、ここに生きている私たちの生の営みや生き方、信仰生活を照らし合わせてみることができます。

ギデオンが「勇者よ」と、主に呼びかけられたのは、「酒ぶねの中で小麦を打っている」時でした。「ミディアン人に奪われることを免れるために」ひっそりと小麦の脱穀をしている姿は、勇者とは程遠い、典型的な「臆病者」でした。そのような「臆病者」ギデオンを、主が「勇者よ」と呼ばれたのは、今のギデオンではなく、彼の中に潜在している可能性に期待していたからです。ここに聖書の人間理解が示されています。

聖書は、最初に人間は「罪人」ではなく「神に似せて造られた」尊い存在であることを示しています。「神に似せて造られた」というのは、人間誰もがどれほど大切な存在であるのかを示している言葉にほかなりません。そして、その人間の尊さは、神との関係性の中にあるからこそ保たれます。その関係性を失ってしまうと、人間の尊さの根拠がわからなくなってしまいます。それこそが聖書のいう「罪の本質」なのです。つまり、聖書から私たちは、どうしようもない駄目な人間ではなく、常に新たにされていく可能性をもっている、かけがえのない存在であるということを教えられるのです。

私たちが信仰を持って生きるとは、果たして何を意味するのでしょうか。今の自分のおかれている状況や自分の情けない姿に失望するのではなく、自分の中にある、これからの可能性に期待して生きることです。常に神との関係性の中にいる自分の姿を省みながら生きることです。神と共に生きるという意識をもってこれからの信仰生活に励んでいきたいと思います。

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