西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「土の器を用いて御業を行われる神」
◆今回の箇所の背景
『コリントの信徒への手紙一、二』の最後の学びとなりました。10章~12章にかけて、自分を批判している人々を念頭に置きながら、自分との違いを強調しつつ、コリントの信徒への手紙の主題であった「十字架につけられたキリスト」について語るパウロでした。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
今回の箇所を理解するために、まず10章~12章全体を読むことをお薦めします。また、特にパウロを批判する人々との決定的な違いが示されている二点、自分の苦難を誇り(11章23~33節)、自分の弱さを誇る(12章7~10節)ところに注目し、パウロが語る「弱さ」とはどのようなことを言い、私たちにどう受け止めるように語っているのか黙想しましょう。
◆弱さを誇る
11:30 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。
>>>今回の箇所の重要表現である「弱さ」について語るパウロですが、直前の23~27節では、福音宣教をした際に受けた数々の迫害に言及し、これらを彼の弱さ故の出来事として語っています。28節では、日々のやっかい事とあらゆる教会における心配事にも、十分に対処できない自分自身への歯がゆさからでしょうか、それらも自分の弱さとして受け止めています。29節では「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」と語ります。弱くされている隣人との出会いや、つまずく人と出会っても、十分なことができない自分の弱さを思い知らされ、もっと力になりたいという思いからでしょうか、「わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」と語っています。パウロが語る「弱さ」には、自己防衛が出来ない弱さ、生活の問題や教会の問題に十分に対応できない弱さ、人助けが十分にできない弱さなど、様々な自分の弱さが念頭にあったことが伺えます。
11:31 主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。 11:32 ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、 11:33 わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。
>>>「ダマスコでアレタ王の代官」とあるのは、当時、紅海からユーフラテス川にかけて存在したナパテヤ王国とその王を指します。犯罪者でもない自分が、犯罪者として追われるようにして追っ手から逃げなければならない状況を、パウロは自分の弱さとして表現しています。確かに、もっと権力や名声があれば、このような苦労をしなくて済んだのかも知れません。
◆主から示された事
12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 12:5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。12:6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
>>>誇ろうと思えば、胸を張って誇りたい特別な体験が14年前にあったことを語ります。しかし、他の人から羨ましがられるような特別な体験をしたとしても思い上がることがないように、また常に謙遜でいることを忘れないように、「身に一つのとげ」という弱さを神から与えられていると語ります。パウロにとって、その肉体的なとげが何を意味するのか、定かではありません。ガラテヤの信徒への手紙4章13~14節(347p)もこのことを連想させる箇所です。
12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
>>>パウロが弱さの定義に「侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」を含めていることが分かります。この世の常識では不幸としか受け止められない状況を通して、神は恵みを与え、御業を行われると結論づけています。「弱いときにこそ強い」、これは簡単には言えないことですが、大切にしたい言葉です。神がアダムのあばら骨をとってエバを造って以来、人類は欠けのある存在、相手に補ってもらう必要のある不完全で弱さや欠点のある存在となりました。それでも、罪を犯す前のアダムとエバが幸せに生きることができたように、誰かと比較して弱いとか欠点があるということは、本当の問題ではないことを示されます。むしろ、それは人間同士が助け合い、補い合っていく上で、必要不可欠のものとして聖書は捉えています。また、私たちが常に謙遜であるためにも、避けて通れない神から与えられる試練であることが示されます。私たちは生きる上で、自分を変えたい、自分を取り巻く状況を変えたい、周りの人を変えたい、というような思いを持つことはないでしょうか。しかし、それらを神から与えられる、謙遜を身につけるための試練として受け止める時、別の見方ができるのかも知れません。
◆話し合いのポイント
・聖書教育誌の「話し合いのポイント」および少年少女科の「活動」などを参考にして下さい。