西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「キリストの犠牲の精神」
◆今回の箇所の背景
聖書教育誌が分かりやすく書いているように、コリントの教会には異言の賜物を教会で実践している人々が、他の人々に違和感や戸惑いを起こさせていたことが背景として考えられます。パウロ自身、異言の賜物を与えられていました。その利用法を知っている者として、異言が神から与えられる大切な霊の賜物であることを強調しつつ、教会の調和を乱す結果を招くような霊の賜物の用い方にならないように注意を与えています。共に霊の賜物についての理解を深めましょう。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
これまでの学びから、聖霊が与えてくださる霊の賜物には、大きく分けて2種類あることがわかりました。12章のように教会と隣人に奉仕するために与えられるものと、13章のように愛に代表される神から与えられる内側の霊性を整えるためのものです。今回焦点が当てられている異言と預言は、それぞれどちらに分類できるでしょうか。もちろん、基本的にはどちらも、自分のためにも他者のためにも使うことができる賜物です。しかし、上記区分を念頭において霊の賜物を理解すると、今回の箇所のパウロの主張がより理解できるでしょう。
◆異言と預言
14:1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
>>>パウロは冒頭でもう一度、大前提として、愛の賜物を最優先で追い求め続けることを強調します。その上で異言の賜物も大事だが、それ以上に預言の賜物について目を向け、熱心に求めるように語ります。
14:2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
>>>ここで異言の定義がなされています。異言とは、言い換えると、神に用いられる祈りの特殊形態です。神は祈りを用いてみ業を行われます。聖霊は時として、異言の祈りを用いて集中的に祈ることを要請されます。異言の祈りの状態に入った人が祈りに集中し平気で数時間祈り続け、その後著しく疲労したという報告もあります。また、異言は意味不明のことが多く、教会などで本人が気づかないうちに異言の祈り状態に入ることもあり、他人には不気味で不安を与えることがあります。そのため、公の場で異言の祈りをすることは特別な場合を除き、差し控えた方が賢明です。パウロは公の場ではむしろ預言の賜物を発揮することを薦めます。
14:3 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。14:4異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。14:5 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。14:6 だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。
>>>預言の賜物は、教会および隣人に用いるための賜物です。教会を造り上げ、人を励まし、慰める上で有効です。ここだけを読むと、預言の賜物は良いことばかりのように思えますが、異言と同様に、理解しておくべき注意事項があります。今回の範囲ではありませんが、預言の賜物には14章24-25節に語られているような側面があります。
14:24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、14:25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。
預言は、聖書のみ言葉が心に強く働きかける聖霊の業を意味します。現代で言えば、礼拝宣教の場面などもそうです。預言は確かに人を慰め、励ます側面がありますが、一方では罪を指摘し、悔い改めを強く導く働きをする一面もあります。この両面があることを理解することが重要です。なぜなら、礼拝宣教において、聞いている人が必要以上に自分の罪を責められて、落ち着いて宣教が聞けない状態になることが起きるからです。主イエスの宣教において、パリサイ派の人や律法学者など、聖書に精通していて普段から熱心に聖書の教えを実践していた人々が、主イエスの宣教を聞いて罪を責められているように感じて、気分を害したことが語られています。しかし、これは主イエスが預言の賜物を発揮した結果だと考えられます。本来は、パリサイ派の人や律法学者を、さらなる霊的な高みへと導く神のみ言葉として受け止めることが期待されたのですが、一人の人間の言葉としてしか受け止めることができなかったために傷ついてしまいます。バプテスマのヨハネも、主イエスの宣教も、「悔い改めて、福音を信ぜよ」で表現されているように、両面ありました。宣教は本来福音だけでなく、悔い改めがセットになっていることを、私たちは理解しておく必要があります。そこが一般の講演会とは違うところです。教会員も宣教者も共に、宣教=預言することの危うさ、つまり悔い改めの要素が、葛藤や悲しみ、怒りなどの、人間的な視点ではネガティブに働くことも覚悟して、できるだけ宣教でつまずく人がでないように、執り成し祈る必要があります。異言と預言のどちらの賜物も正しい理解のもとで熱心に祈り求められ、発揮されるべき賜物だと言えます。
14:7 笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。14:8 ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。14:9 同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。14:10 世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。14:11 だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。14:12 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。14:13 だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。14:14 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。14:15 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。14:16 さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。14:17 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。
>>>異言は、基本的に個人で祈る時に向いている賜物ですが、だれかの模範がなければ、だれもそれがどのようなものかイメージできません。時には教会などの公の場で異言の祈りがなされてもいいのでしょう。その場合には、前提として異言を解釈する賜物を持った人がいる、ということを薦めています。霊の賜物には実に様々なものがあることが分かります。
14:18 わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。14:19 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
>>>霊の賜物も、それぞれの性質を理解して適切に用いることが必要だと示されます。また、霊の賜物は私たちが、熱心に具体的に神に祈り求めるものであることが示されています。熱心に求めることなしには、なかなか与えられないのが霊の賜物なのかもしれません。だとしたら、私たちは霊の賜物を求める祈りに、どれだけ時間を割いて来たでしょうか。今回の学びをきっかけに2種類の賜物を熱心に願い求め、実践し、神と教会と隣人に仕える者とされていきましょう。
◆話し合いのポイント
・聖書教育誌の「話し合いのポイント」および少年少女科の「活動」を参考にして下さい。