西川口キリスト教会 斎藤信一郎
今月の主題…「キリストの犠牲の精神」
◆今回の手紙の背景
7章以降は、先に受け取った手紙と伝え聞いていたことの中に挙げられた課題に対し、個別に語っていました。12章後半からはキリストの犠牲の精神について、さらに踏み込んで語って行きます。その中心が13章の愛についての定義ということになります。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
13章4~7節に語られる愛の特徴について黙想しましょう。また、霊の賜物と一般的な能力や才能との違いについて黙想してみましょう。
◆キリストの体
12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 12:28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。 12:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。 12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
>>>パウロはこれまで、十字架につけられたキリストを強調しながら、徹底的に他者、隣人中心に神の愛を実践すべきことを語って来ました。次に語るのは、教会が一致して行く方法についてです。それにはキリストの体の一部として、各自が自分の役割を積極的に担うことが不可欠だと語ります。それぞれ違っていて当たり前、違わなければ体として機能しない。それぞれがむしろ違う働きをしていることを喜び合うことが大切だと主張します。
ところで、パウロが語る霊の賜物と、一般的な能力や才能とはどう違うのでしょうか。上記の賜物の中にも、区別がつきにくいものがあります。この違いについて、以下で考えていくことになります。
12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。12:31 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
>>>これらの賜物が一つとなって機能するためには、体の各器官が血液によって互いにつながれ、作用し合っているように、霊の賜物にもそれらを統合し、決定的に重要となる役割を果たす賜物があるといいます。神からいただく愛がそれだ、と以下で主張していきます。しかも、それはだれもが神からいただける賜物ですが、熱心に願い求める必要があると言うのです。
◆愛
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
>>>神が与えてくださる愛の賜物なしに他の霊の賜物を用いることは、人の益にならず、非常にむなしいと主張します。それほどの違いを生む神の愛の賜物とはどのような賜物なのか、以下に述べます。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
>>>これら15の愛の定義にはどんな特徴があるでしょうか。聖書教育誌も言及しているように、これらは行動には現れないものばかりだと言えます。つまり、これらは私たちの内面、心の中でまず整えなければならないものだということです。それでいて、これらは他者、隣人に対して整えて行く心の状態であり、最終的には隣人に対して行動を表に現していくものです。キリストが示された犠牲的な愛の本質そのものではないでしょうか。
そこで最初の疑問に戻りたいと思います。霊の賜物と一般的な能力や才能とはどこが違うのでしょうか。霊の賜物とは、神からいただく愛を根源とし、隣人に向けていくことが前提であるという点です。自己実現や利己的な目的で、自分が身につけた能力や才能を発揮することは、霊の賜物を用いたことにはなりません。キリストの最後の審判の時のたとえに、二つのグループに人々を分ける話があります。片方は、霊の賜物を、神から与えられた人生の使命として実行した人々として描かれています。もう一方は、人助けや善行を、自己実現のために実行した人々として描かれています。残念ながら後者は、神から報いを受けることができなかったことが語られています。日々の祈りとみことばの養いを通して神の愛をいただき、だれに対して実践していくべきかを導かれ、聖霊の導きと助けをそれぞれの生きていく持ち場でいただきながら、隣人に対して霊の賜物を用いていくことが大切だと示されます。
13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
>>>いつまでも残るということは、天国に持っていくことができるということでもあります。見方を変えれば、この世に生きている間から育て、成長させることができるのが霊の賜物だといえます。それならば、今の内から大きく育てる方が、天国に行ったときにどれほど良いでしょうか。主イエスは、天に宝を積むことの大切さを教えられましたが、愛を基礎にした霊の賜物の実践こそ、天国におけるさらなる活躍のカギを握るのかもしれません。大切に受け止め、実践していきたい今回のみことばです。
◆話し合いのポイント
・聖書教育誌の「話し合いのポイント」および少年少女科の「活動」を参考にして下さい。