西川口キリスト教会 斎藤剛毅
「願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」ヤコブの手紙4章3節
祈っても答えが与えられない時には、理由があります。一つは、悪い求め方をするからだと聖書は教えます。ヤコブは手紙の中で上記のように「願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求め るからです。」(4章3節)と語ります。ここで言う「楽しみ」とは自己中心的な快楽追及を意味します。自己中心的快楽を満たすために、祈りによって神を動かそうとすることは間違った動機だとヤコブは語ります。
祈りが聞かれない二つ目の理由は、厳しい警告として予言者イザヤが語っています。イザヤは次のように語りました。「主の手が短くて救い得ないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ書59章1-2節)人間の犯す悪と罪が神の耳を塞ぐのだとイザヤは語るのです。この言葉は私たちに反省を促します。3節と4節には「手は血で、指は悪によって汚れ、唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。正しい訴えをする者は無く、真実をもって弁護する者も無い。むなしいことを頼みとし、偽って語り、労苦をはらみ、災いを産む。」とあります。
祈りが聞き入れられない三つ目の理由として、父なる神様の深い愛から起こされる、信仰の成長を促すために与えられる様々な試練や訓練を避けようとすることが上げられます。様々な試練の中で、私たちの信仰を訓練し、強めていくという神様のご計画が背後にある限り、「試練の苦しみを取り除いて下さい」という祈りは、聞き入れられないのです。へブライ人への手紙は「“主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。”あなたがたはこれを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。…およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、むしろ悲しいものと思われるのですが、後になると、それで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(12章6-7、11節)と語ります。
祈りが答えられない四つ目の理由として、神に求めたものを、私たちがすぐに諦めてしまうこと、熱心さと粘り強さに欠けていることが上げられます。