西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「キリストにある一致」
◆パウロが語るキリスト教の中心教理
パウロは第二回目の伝道旅行の際に、コリントで一年半の伝道活動を行っている。第三回目の伝道旅行中に約三年間滞在したエフェソにおいて、コリント教会内の分裂と諸問題を伝え聞き、手紙を書く。パウロは手紙の中で、特に「十字架のことば」、「十字架につけられたキリスト」を強調しながら、他者の罪を自分の問題として受け止め、人々の罪をあがない続けた、キリストの模範を信仰の土台とするように訴える。また、聖霊に導かれて生活することの大切さを語り、各自は聖霊が宿る神の神殿であることを自覚した生活をするように勧める。加えて、後半になるに従って、キリストの自己犠牲的な隣人愛が強調されるようになっていく。
◆今回の手紙の背景と結論
7章1節には、「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。」とあるように、コリント教会からの何らかの信仰上の指示を仰ぐ手紙を、すでに受け取っていたことが語られています。パウロは6章までに、コリント教会の総合的な問題について述べた後、7章からは受け取った手紙の内容や伝え聞いていたことを元に、個別の案件について書いています。
その一つが、偶像に供えられたものをどう考えるかについてでした。パウロはこの問題についての考えを、8章~10章にかけて述べています。当時の社会では、おそらく、女神であるアフロディーテの神殿で捧げられた肉の一部が、市場にも出回ることが赦されており、そのような肉を食べてもいいかどうかが、今回の議論の背景にあったようです。結論部分の10章20-21節では、「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。」と述べ、偶像に捧げられたものとは、いわば悪霊に捧げられた物と同等であるため、それを食べたり飲んだりすることは、クリスチャンとして避けるべきだと主張しています。旧約聖書の申命記32章16-17に「彼らは他の神々に心を寄せ主にねたみを起こさせ/いとうべきことを行って、主を怒らせた。彼らは神ならぬ悪霊に犠牲をささげ/新しく現れ、先祖も知らなかった/無縁の神々に犠牲をささげた。」とあり、偶像に捧げられたものは悪霊崇拝とのつながりがあることを示唆しています。パウロの主張の背景には、このような理解があると考えられます。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。http://www.bapren.com/index.html
(『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
10章まで続く、パウロの偶像への供え物についての考えが述べられていく箇所です。様々な時代的背景と10章までの内容を理解して読む必要があります。上記内容と聖書教育誌を参考にしながら黙想しましょう。
◆偶像に供えられた肉
8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
>>>ここで語られる「知識」とは、「偶像は神などではない」(4節)という知識と、(偶像に供えられた肉を)「食べたからといって、何かを得るわけではありません。」(8節)、つまり、祟りなどを恐れる必要もないという知識のことを指すと考えられます。しかしながら、その知識だけで信仰生活をしていくのは甚だ危険であり、別の視点から検討すると、偶像に供えられた肉を食べることは、他のクリスチャンたちをつまづかせると同時に、誤った信仰理解に導く可能性がある。そのことを弁えなければならない、と主張します。
8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。8:5 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
>>>この考え自体は正しく、これに従えば偶像に供えられた肉を食べても問題はないという理解は確かに可能だ、と語り、状況次第では食べても差し支えないことを示唆します。その具体的事例については後の10章25-28節で
「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。
と語り、食べても差し支えない場合と、状況次第では相手のことを考慮して食べた方がいい場合について言及しています。その一方で、食べない方がいい場合についても言及しています。
8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
>>>偶像は本物の神ではないため、もともと何の力もないし、偶像に供えられた食べ物が汚れてしまうわけでもない。従って、クリスチャンが偶像に供えられていた物を食べたところで、体に悪い影響を与えることはないと言い、偶像の肉を食べていたクリスチャンに対する一定の理解を示します。
8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
>>>当時のクリスチャンたちの中には、実際に神殿に行って平気で食事を楽しむ人々がいたことが伺えます。このような行為は決して正しいことではない、と主張します。多くの人に誤解とつまずきを与えるからです。また、使徒言行録15章28-29節には、エルサレム使徒会議で決議された、異邦人クリスチャンが避けるべき最低限のものの中に、“偶像に供えられた肉”が挙げられています。
「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
この情報がコリントの教会に十分に伝わっていたのかどうか、定かではありません。
8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。
>>>偶像に供えられたものを食べることの問題点とは、そうすることによって、偶像礼拝に参加してもいいかのような誤解を与えてしまうことだと述べた上で、様々な誤解を避けるためにも食べないことが望ましいと結論づけています。
◆話し合いのポイント
・聖書教育誌の「話し合いのポイント」および少年少女科の「活動」を参考にして下さい。
50ページ「話し合いのポイント」で提示されている問いを考えましょう。…
マルコによる福音書14章36節
▶こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
マタイによる福音書25章31-40節
▶「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
問い)これらの二つの答えは、聖書教育誌が語るように、どう一つにまとめることができるでしょうか。