西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「キリストにある一致」
黙想のポイント
・パウロは、土台はイエス・キリストだと言います。土台であるイエス・キリストとはどのようなお方なのかについて、パウロは繰り返し「十字架につけられたキリスト」(1章18節、2章2節)と強調してきました。従って私たちは、パウロが「十字架につけられたキリスト」と語る意味について、理解を深める必要があります。パウロはどのようにキリストを理解し、述べ伝えることを願っているのでしょうか。黙想しましょう。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。http://www.bapren.com/index.html
(『聖書教育』ホームページ)
3:10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。3:11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
>>>パウロは、土台に合わせて建物を建てる、つまり信仰生活をすることの重要性について語ります。そのためにまず、基礎となるイエス・キリストが示された信仰の土台がどのような土台なのかについて、正しく理解すべきだと主張します。パウロはそれを、これまでの手紙の中で「十字架につけられたキリスト」と表現して来ました。決してそれを軽視して信仰生活を続けることがないように、とパウロは語るのです。
それでは、希望に溢れた「復活のキリスト」ではなく、「十字架につけられたキリスト」という表現に、パウロはどのような意味を込めているのでしょうか。キリストがこの世に生を受けてから、十字架の上で息を引き取られる最後まで貫き通されたのは、自分以上に隣人を愛するために「神の子としての権利」を放棄し続けることでした。主イエスは本来だれよりも敬われ、大切に扱われるべき存在でした。十字架に掛けられることなどとは、最も遠い存在のお方でした。その特権を放棄することなくして、十字架に架かることはできなかったのです。言い換えると、主イエスの人生は、ご自分の正当な権利を踏みにじられ、不当に扱われ続けた人生でした。それこそが、主イエスが生涯担ぎ続けた十字架であったということができます。
主イエスが弟子たちに度々呼びかけられたのは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章34~35節)、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカによる福音書9章23節)、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14章27節)でした。すべてに共通することは、キリストの愛に基づく自己犠牲なしには実行できない、ということです。主イエスが生涯示し続けられた模範とは、自分ではなく、隣人を幸せにするための愛に基づく自己犠牲だったのです。
その土台が軽視されていたために、コリントの教会では深刻な分裂をはじめとする諸問題が生じていることを、パウロは示しているのです。
3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、3:13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。3:14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、3:15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
>>>ここで登場する「かの日」とは、最後の審判を指すものと考えられます。また、ここで前提となっているのは、土台をキリストに据えたクリスチャンたちです。しかし、どういう土台かをよく理解して建てた場合とそうでない場合とでは、大きな違いが出てくるとパウロは語ります。間違った信仰理解を続けた場合には、深刻な損害を受けることになると警告します。ただし、それでも救われるとパウロが語っているところに希望はありますが。
3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
>>>どんな時もクリスチャンが謙遜でいるために忘れてはならないのが、私たちの人生も、家族も、財産も、自分のものではないということです。すべてがキリストにあがなわれたものだという自覚が大切です。その土台の上に、私たちの持ち家ではなく、神の神殿が建っているという自覚を持って生きることが大切だ、とパウロは主張します。別の言い方をすると、いついかなる時にも、復活のキリストの霊である聖霊が私たちの人生と共に住んでいて下さっている、ということを自覚して生きることです。礼拝の現場で、しかもイエス・キリストの面前では決してしないことが多くあるはずです。他者を裁いたり、自己正当化したりできないはずです。自分に与えられている、キリストの土台とその上に建つ聖霊の神殿。それを自覚して生きることの大切さを教えられます。
◆話し合いのポイント
・聖書教育誌の「話し合いのポイント」および少年少女科の「活動」を参考にして下さい。