西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「受難、罪人と向き合う主イエス」
黙想のポイント
・マルコによる福音書では、子ロバに乗ってエルサレム入場をする時からイエスの会話が極端に少なくなっていく特徴があることをこれまで見てきました。主イエスの受難の場面では、主イエスに従っていた女性たちが沈黙する場面を伝えています。彼女たちのそれぞれの想いを黙想しましょう。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。http://www.bapren.com/index.html
(『聖書教育』ホームページ)
◆復活する
16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
>>>福音書記者のマルコは、イエスが十字架に掛けられた場面から特別に3人の女性を登場させています。彼女たちの特徴の一つは、ほとんど何も語らないということです。
主イエスが十字架に掛けられていた場面でも彼女たちは黙って様子を伺っていました。
15章40節 「また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。」…ここで登場する「サロメ」はマタイ福音書27章56節の同記事から十二弟子のヤコブとヨハネ兄弟の母の名前と考えられています。
主イエスが墓に葬られた時も彼女たちは黙って様子を伺っていました。
15章47節 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
今回の箇所である16章1節でも彼女たちは香料を買いに行ったことだけが語られます。
このように、マルコは主イエスに仕えて来た3人の姉妹を繰り返し登場させながら、16章3節の短いセリフ以外、彼女たちにこれと言って重要なセリフを与えないのです。
墓で彼女たちが天使と思われる若者に出会った時も、彼女たちは動揺して逃げ帰り、しばらくだれにも何も語らなかったとしています。マルコは彼女たちの会話を最小限に留めているのです。そのことが返って私たちの想像力を掻きたてるのかもしれません。受難週です。じっくり彼女たちのそれぞれの場面での想いを黙想するのもいいのではないでしょうか。
その一方で、興味深いと言えば、マルコはなぜか2番目に登場する女性について記述する時だけ、毎回表現を変えています。15章40節では「小ヤコブとヨセの母マリア」、15章47節では「ヨセの母マリア」2番目のヨセのみ、16章1節では「ヤコブの母マリア」最初のヤコブのみを書いています。「小ヤコブ」としているのは大ヤコブと言われる主イエスの側近三人衆である、ペトロとヤコブとヨハネと区別するためです。
このように、書く度に登場人物を入れ替えている箇所は福音書の中でも珍しいと言えます。ここには福音書記者であるマルコのなんらかの意志表意があると考える人もいます。マルコはこの謎かけにも沈黙を貫きます。(別の機会に、この解釈の可能性について述べることにします)
◆話し合いのポイント(聖書教育誌と連動させて…)
・マルコが登場させている女性たちについて黙想したことを自由に分かち合ってはいかがでしょうか。
・聖書を黙想することの大切さについて分かち合うのもいいでしょう。