西川口キリスト教会 斎藤信一郎
今月の主題…「主イエスの御業を引き出す信仰」
◆前回マルコ10章17~27節から今回までのあらすじ
・永遠の命をより確実に手に入れる方法を主イエスに教えてもらおうとした金持ちの青年は、それが考えていた以上に自分の生活を変えることを知って主イエスにすべてを委ねて従うことを諦めて帰ってしまいます。主イエスが彼に気付いて欲しかったのは将来の永遠の命の保証よりも、主イエスと共に現在、神の国に生きることができるという福音でした。その後、覚悟を決めてエルサレムへと向かい、三度目の受難予告を弟子たちにします。なお、今回の箇所の間には、ヤコブとヨハネが主イエスの一番近くで仕える存在になりたいとの意志表明や、盲人バルティマイを癒す話があります。これらすべての話が、今回の箇所を理解する上での重要な流れとしてマルコは描いています。
黙想のポイント
・重要なポイントは聖書に書いてあることだけとは限りません。今回の箇所はその典型です。福音書記者のマルコがあえて読者の想像と聖霊の導きに任せている部分を探し、そこにも思いを向けながら黙想しましょう。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。
http://www.bapren.com/index.html
(『聖書教育』ホームページ)
◆エルサレムに迎えられる
11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
>>>今回の聖書教育誌は、ここで弟子たちが十分に主イエスの指示の意味が分からなかったにも関わらず、主イエスに信頼してその言葉に従ったことの意義に着目しています。
11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
>>>今回の箇所の特徴は、主イエスが子ろばに乗ったところから主イエスの会話が一切無くなります。対照的なのがイエスを取り巻く人々の喜びの声です。マルコは王族や兵士が用いる軍馬とは対照的な平和と柔和を象徴する子ろばに乗ってエルサレムに入場するイエスを描きます。
11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
>>>今回の箇所の最大の特徴的は11節かも知れません。本来ならば非常に重要であるはずの神殿での第一日目がこの1節の記述だけで終ってしまいます。主イエスがどんなことをしたのか、どんな会話をどんな人々と交わしたのかが一切省略されているのです。これまで人々との会話を丁寧に書いてきたマルコが、主イエスが子ろばに乗った時から、エルサレムを退場して二日目を迎えるまでの一切の会話を省略したのは何故でしょうか。読者に考えさせます。
これまでの流れから考えると、金持ちの青年の話、十二弟子のヤコブとヨハネの話、主イエスを歓迎する群衆の話はどれも自分達の人生に真面目に向き合っていた人々の話です。それにも関らず、主イエスが最も理解して欲しい主イエスに従う意味や神の国の福音、そして主イエスが受けようとしておられた受難の意味などについて、人々の理解がずれていたことをマルコはエルサレム入場前に連続で伝えています。
マルコは全生涯を掛けて十字架の受難を目前に控えた主イエスの心境を考え、どうしても主イエスの会話を書くことができなかったのかも知れません。弟子たちも、群衆も主イエスの本当に伝えたい真の福音を理解できない現実。礼拝の聖地エルサレムに入ってからも、そこで目にした祈りの家であるべきはずの場所の変わり果てた様子。これらにどれほど主イエスは心を引き裂かれていたのかを想像し、あえて書かないことによって読者にも考えさせようとしたのかも知れません。
それとは対照的なのがエルサレムでの二日目の描き方です。イエスはいちじくの木が肝心な時に実を提供できないことを激しく呪い(嘆き)、神殿においては商人たちのあるまじき行為を非難し、強制的に商売を辞めさせようとします。これまで抑えていた感情が表に出るような姿をマルコは描くのです。十字架に掛けられる以前から「隣人を赦し、受け入れ、愛する」という人生の十字架を背負い続けておられた主イエスを、マルコは読者と共有したかったのではないでしょうか。
◆話し合いのポイント(聖書教育誌と連動させて…)
・聖書教育誌の「おはなし」をとても味わい深く読んだ方もおられるのではないかと思います。著者が聖書に書かれている範囲内で想像力を駆使して、マルコが伝えようとした福音を理解しようとしていることが伝わります。聖書教育誌がポイントとして挙げているように、主イエスの指示を完全には理解できなくても、主イエスのみ言葉に信頼して従う時に体験する祝福について分かち合うことができます。
・全世界でキリストの受難を想起するレントの時期に入っています。今回の箇所を通して、主イエスが十字架に架かられる前から背負い続けておられた人生の十字架について、分かち合うこともできます。