今月の主題…「すべての民の祈りの家」
◆イザヤ書について・・・
・イザヤ書は三つに区分する方法以外に、二つに区分する方法があります。前半は39章までで、後半は40~66章です。そして、イザヤ書66章の構成は旧新約聖書66巻と不思議な類似を見せています。旧約聖書は39巻、新約聖書は27巻ですが、イザヤ書もちょうど同じ数の章で区分することができます。しかも後半40章からの内容が捕囚からの解放宣言で始まり、40章3節「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」は、新約聖書の最初の福音書マタイ福音書3章1-3節『そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」』で引用されています。このイザヤ書の40章3節のみことばは、例外的に新約聖書の4福音書すべて(マタイ3章3節、マルコ1章2節、ルカ3章4節、ヨハネ1章23節)で引用されています。つまり、新約聖書の最初を特徴づけるみことばが、イザヤ書40章3節なのです。
また、イザヤ書の最後を飾る66章22節は、新しい天と新しい地についての預言で終わります。これも新約聖書最後の黙示録の21-22章で語られる「新しい天と新しい地」についての預言と重なります。この不思議な類似は果たして意図的なものなのか、偶然によるものなのか、あなたはどのように受け止められるでしょうか。イザヤ書が書かれたのは、新約聖書を含むキリスト教の聖書が歴史に登場するよりも、はるか昔です。しかも、ユダヤ教徒が新約聖書に合わせてイザヤ書を再編集するはずがありません。イザヤが真の預言者だったからこそ、成し得た奇跡だと言えるでしょう。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
バビロン捕囚で苦しめられていた人々、捕囚からイスラエルに帰還してから困難続きだった人々、主イエスの時代のローマ帝国の支配下にあった人々、現代に生きる私たちなど、それぞれの時代の困難の中にあった人々に今回の箇所がどのように希望を与えるのか黙想しましょう。
◆貧しい者への福音
61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
>>>これはルカによる福音書4章16節で引用されている箇所です。主イエスは礼拝に出席した際に聖書朗読の奉仕を買って出ますが、その時に手渡されたのがイザヤ書で、開いたページがちょうどこの箇所でした。
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 4:19 主の恵みの年を告げるためである。」 4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
>>>偶然に手渡され、開いたイザヤ書の61章でしたが、主イエスはこの預言の言葉が自分の使命を預言している箇所であることを自覚すると共に、その時代がまさに、このみことばが成就される時だと理解しておられました。ローマ帝国の支配のもとで、願っているような国の独立と礼拝生活ができないでいたイスラエルの人々。見通しの利かない時代に生きていた民にとって、このみことばが将来への確かな希望となることを、理解していた主イエスでした。
61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
>>>イスラエルでは、深い悲しみに遭遇した時に灰をかぶる風習がありました(Ⅱサムエル記13章19節他)。樫の木は強い生命力を象徴する木として引用されています。
61:4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
>>>徹底した町の復興が語られています。過去の廃墟までもが復興の対象とされています。人類の歴史が始まったアダムの時代に遡って復興が起こされても、おかしくないかのような表現になっていることに注目できます。
61:5 他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。61:6 あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。
>>>この節は61章の中でも特に重要な箇所だと考えます。5節の用語はすべて礼拝準備に関わる用語です。この箇所では、他国の人々が自発的にイスラエルの礼拝に欠かせない犠牲の羊や、パンなどの原料となる穀物や、ぶどう酒を作る働きを担う姿が語られます。そして、イスラエルの民が祭司として活躍することが語られます。つまり、世界中の人々が共に協力して、礼拝を造り上げる働きに関わる日が到来することが示唆されています。礼拝を司る者が、レビ人のみではない時代が到来することが預言されているのです。そして、それは今や世界規模で成就していると言えます。
61:7 あなたたちは二倍の恥を受け/嘲りが彼らの分だと言われたから/その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける。 61:8 主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって彼らの労苦に報い/とこしえの契約を彼らと結ぶ。
>>>主なる神が永遠の報いを持って、この世における一時的な恥や不正や苦痛から解放して下さることが語られます。すべての労苦に報いて下さる神に信頼し続けることの幸いが語られます。
61:9 彼らの一族は国々に知られ/子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう/これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
>>>いずれすべての人が、イスラエルの民こそ神の契約の民であることを認めるようになる、と預言している箇所です。同時にこれは、主イエスの福音が全世界に伝えられることによって、すべてのクリスチャンにも当てはまる預言となっていきます。
61:10 わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。61:11 大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
>>>やがて新しい天の御国における、新しい生活を連想させる表現になっています。その時の主イエスのなさる偉大なる救いの恵みを、賛美せざるを得ない喜びに満たされた著者の言葉で、この章は閉じられます。
◆話し合いのポイント・・・前回イザヤ書の解説で説明し、また聖書教育誌15ページの概論でも語っているように、第三イザヤはバビロンから帰還し、同胞の敵意と妨害で希望が頓挫し、先行きが見えなくなっていた時代に書かれたものだとする前提で、聖書釈義を行っています。このように、聖書が書かれた歴史的背景や時代を、近年の聖書学的な見地から考えてみることも有意義です。一方では、(語順入れ替え)このような恵まれた学習環境に置かれている日本と違い、世界のほとんどの人々は、聖書のみを教材にして、イザヤ書は神が立てられた預言者イザヤが書いたと信じながら聖書を読んでいる現実があります。過去の時代はなおさらです。いずれにしても、聖書を現代の私たちに適用していくことが肝心です。聖書教育誌では、「先行きの見えないしんどい日々を過ごす」人々や「苦しみや大きな環境変化の中で知る神の恵み」を過去と現在の共通項として私たちに考えさせます。今回の箇所はどのように私たちの今に福音となっているでしょうか。