今月の主題…「すべての民の祈りの家」
◆イザヤ書について・・・
・イザヤ書は大きく3つに区分できると考えられています。今月は、その最後の区分からみことばを聴いて参ります。聖書教育誌15ページの『第三イザヤとその時代(56~66章)』をご参照下さい。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
今回の箇所に登場する「異邦人」と「宦官」という人たちは、現代ではどんな状況の人々として受け止めることができるでしょうか。黙想しましょう。
◆異邦人の救い
56:1 主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
>>>1節は、神の特別な御業が間もなく行われることを予感させる言葉から始まります。それはどのようなことなのか、その重要なポイントが2~8節で語られます。
56:2 いかに幸いなことか、このように行う人/それを固く守る人の子は。
安息日を守り、それを汚すことのない人/
悪事に手をつけないように自戒する人は。
>>>1節の神の言葉に期待して、2節のみことばに聴く私たちですが、そこには私たちの魂を揺さぶるほどの言葉がありません。しかし、「いかに幸いなことか」と宣言される神が、私たちに求めている正しい生き方として、具体的に示されたのは以下の2点です。すなわち、安息日を神が命じられているように過ごすことができる人。もう一つは、罪を未然に防ぐための努力を惜しまない人です。両者で注目すべき点は、どちらも事前準備と心構えが、結果に大きく影響するという点です。「いかに幸いなことか、安息日を守る人」「いかに幸いなことか、悪事に手をつけない人」とは書いていないのです。ユダヤ教の安息日は、金曜日の夕方から翌日土曜日の夕方まで続く24時間を指します。ユダヤ人は、安息日が神に特別に聖別された休養と礼拝の日になるように、木曜日の早朝から日没までの半日を準備に当てるのです。事前準備があってこそ、安息日は守れるのです。また、二つ目も、悪事に手をつけないよう日頃から自戒することができるように、日々みことばに聴く信仰と習慣が養われているかを問う内容となっているのです。これらを実践し、その習慣が確立している人は「いかに幸いなことか」と神は宣言しているのです。
56:3 主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。
宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
>>>ここで突如として異邦人と宦官が登場します。
・「主は・・・区別される」および「見よ、わたしは枯れ木にすぎない」について理解を深めるために、聖書教育誌が参照箇所にあげている、申命記23章2-4節を参照しましょう。合わせて9節までを参照します。
◆会衆に加わる資格(申命記23章2-9節)
23:2 睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。
>>>当時、他国で王妃たちに仕える役人たちは宦官と呼ばれ、性的な間違いを犯すことができないように手術を施されていました。すなわち、子孫を残すことができない体にならなければなりませんでした。そのことを表現している箇所です。今回の箇所の3節で宦官が自分のことを「枯れ木」と表現しているのは、枯れ木同様に、実(次の子孫)を実らせる(残す)ことができない身体になってしまったことを嘆く言葉です。
23:3 混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。
>>>「混血の人」とは、異なる宗教を信じる両親に育てられた人々を指す言葉だと考えられます。ユダヤ教もイスラム教も、家族の宗教が一つであることを重視する宗教です。ですから、その点を重視しない、異教の曖昧な宗教観を持った人を会衆に加えることを警戒した教えだと考えられます。「十代目になっても」とは永遠にという意味ではなく、そのような曖昧な信仰姿勢を持つ間はいつまでも会衆に加えてはならない、と理解すると良いでしょう。
23:4 アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。23:5 それは、かつてあなたたちがエジプトから出て来たとき、彼らがパンと水を用意して旅路で歓迎せず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたを呪わせようとしたからである。23:6 あなたの神、主はバラムに耳を傾けず、あなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主があなたを愛されたからにほかならない。23:7 あなたは生涯いつまでも彼らの繁栄や幸福を求めてはならない。
>>>イスラエルの民がカナンに戻る際に、彼らを祭司の祈祷で呪い、戦で滅ぼそうとした民族が、アンモン人とモアブ人でした。そのような価値観や考えを持つ人をユダヤ教徒として受け入れ、共に礼拝してはならないという神の教えです。
23:8 エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である。エジプト人をいとってはならない。あなたはその国に寄留していたからである。23:9 彼らに生まれる三代目の子孫は主の会衆に加わることができる。
>>>エドム人とはアブラハムの甥のロトの子孫です。エジプト人とは、初期の間だけでしたが、飢饉の際にヤコブとその子孫を自分たちの国で保護してくれた民族です。外国人であっても、イスラエルに住むようになって三代目の子孫(子どもの時期からイスラエルで育った者たちと解釈することも可能か?)からは、改宗してユダヤ人と同等に礼拝に参加することができる旨の教えです。これは、異邦人や外国の風習で育った人々を礼拝から除外することを目的にしたものではなく、それらの人々が先祖代々培って来た神を問題視しており、その風習、習慣から完全に離れることの必要性を説いた教えとして理解することがふさわしいのではないでしょうか。従って、これらの箇所はもともと、異邦人と宦官が永遠に礼拝に参加することは赦されないという教えではないのです。
56:4 なぜなら、主はこう言われる/宦官が、わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るなら 56:5 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。
>>>現代でも、様々な理由で子どもや後継者がいない人々は大勢います。宦官はそれらの人々を代表しています。キリストを信じて従う信仰告白をして歩み始める時、子どもがいる、いないに関わらず、私たちの名は命の書に書かれることが新約聖書に語られています。そして教会は共に協力してキリストの弟子、神の家族を産み育てる信仰共同体なのです。
56:6 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら 56:7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
>>>冒頭に「主のもとに集まって来た異邦人」と表現されています。このことから、この箇所で対象とされているのは、異邦人全般ではなく、主なる神を礼拝することを選んだ異邦人たちだと理解することができます。聖書の神はまさしく「すべての民」を「祈りの家」に導かれる神なのだという福音です。
56:8 追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。
>>>以上のような「すべての民の祈りの家」が実現する日を速やかに実現すると、神は今回の箇所で宣言しておられます。この約束がイエス・キリストによって成就していることを感謝したいと思います。
◆話し合いのポイント・・・今回の聖書教育誌では「すべての人の祈りの家」としての教会理解に光りと問いを投げかけています。聖書教育誌が取り上げている、障害を負っている人たち、近年増え続けている外国籍の人々を含め、格差社会が進む日本社会において、様々な差別が無意識の内にも教会の中に存在し得ることを考えさせられます。私たちの教会が真実に「すべての人の祈りの家」になるために、どんな課題があるでしょうか。