西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「神の臨在と祝福の中に生きる幸い」
◆詩編について・・・その4
51編からダビデの詩編が続きます。51編以降の一連の詩編を見ていただくと、冒頭に解説がついているものが多く続きます。また、52~55編の出だしなどには「マスキール」という言葉が使われます。マスキールの正確な意味は不明ですが、「教訓的詩編」とか「反省的詩編」という説もあります。また、56~58編には「ミクタム」という言葉が使われていますが、この言葉も正確な意味は不明で、「黄金の歌」とか「贖罪の歌」とする説があります。今回の51編で興味を引くのは、ダビデの過去の重大な過ちを題材に作られた詩編だという点です。本来ならば隠しておきたい題材さえも賛歌にされるのが、詩編の特徴と言えるでしょう。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
この詩編はダビデ王が重大な罪を犯し、預言者ナタンにその罪を指摘された時のことを元に作成された賛歌=賛美歌となっています。自分の恥ずべき、過去の罪深い出来事を賛美にし、大勢の人に知らしめ、後世にまで残るようなことを、なぜダビデは敢えてしたのでしょうか。ダビデにそうさせた動機について本文から黙想しましょう。
◆本文
51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。 51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
>>>この詩編は、サムエル記下の11~12章に語られる事件について、ダビデの罪責告白を賛美にしたものです。このようなテーマが賛美になることに驚きさえ覚えます。敢えて自分の取り返しのつかない過ちを歴史に刻もうとするダビデがここにいます。
51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。51:4 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
>>>ダビデが、罪を犯した自覚を持ちつつも、その罪を「ことごとく」赦され、清められるという確信に近い希望を持っていることが伺えます。彼のこのような信仰はどこから来ているのでしょうか。また、この問題が常に彼を悩ませていたことが「常にわたしの前に置かれています」という言葉で表現されています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
>>>ダビデはここで「<あなたのみ>にわたしは罪を犯し」と告白しています。彼は不倫を強要したバテシバに対して責任があるはずです。バテシバの夫であり、彼の部下であったウリヤをわざと戦死させたことは問答無用の重罪のはずです。本来、神にのみ罪を犯したと主張できないはずのダビデなのですが、真意はどこにあるのでしょうか。聖書教育誌の解説も参考にして下さい。
51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。
>>>ダビデは母の胎内に命を宿した時も、この世に生まれてきた時も、すでに「咎の内に」つまり罪の影響下に置かれて今日まで生きて来たと語ります。ダビデの罪理解が語られています。
51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
>>>難解な箇所です。ダビデは何をいいたいのでしょうか。あなたはこの節をどう理解しますか。
51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。
>>>ヒソプはエジプト原産のはっか科の小さな植物です。ヒソプは、出エジプト記12章に、罪の裁きからあがなわれるための象徴として羊の血とともに(語順入れ替え)登場します。エジプトで奴隷状態だったイスラエルの民を導き出すため、最後の十番目の災いが起きる前に、神がモーセに、小羊の血にヒソプの束を浸して入り口の柱に塗るように指示する話があります。その後も聖書では、ヒソプは清めの儀式に用いるものとして登場しています(レビ記14章、民数記19章他)。それを意識してダビデは「ヒソプの枝」を用いたのでしょう。この節の最後の「雪よりも白く」という言葉は、神による罪のあがないの徹底さを示す優れた表現となっています。
51:10 喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。51:11 わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。
>>>ダビデは、不倫のすえに生まれた子どもをすぐに病気で失いました。「砕かれた骨」であるとの自覚と、それでも神によって再び、喜び踊ることができる日の到来を心から願うダビデの心境が語られます。
51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。51:13 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。
>>>十字架のあがないと復活によってもたらされる、キリスト者の新生を連想させるダビデの優れた表現です。清い心を罪人の中に、新たに創造できることを信じているダビデ。神ならば、罪人の中に新しく確かな霊を授けることができることを信じているダビデの言葉です。
51:15 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。
>>>注目すべき箇所です。ダビデは自分の罪があがなわれた後にどうすべきかを理解しています。自分の過ちを他者への教訓とし、他者をも悔い改めに導く必要があることを自覚しています。これこそ、罪を赦された者が神から与えられる、重要な使命だと理解したダビデ。だからこそ、彼は最も隠して起きたかった過去の罪を、敢えて賛美の形にして表現したのではないでしょうか。
51:16 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。51:17 主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
>>>特に19節の言葉は重要です。罪を犯した場合の礼拝における犠牲の献げ方ならば、承知していたはずです。しかし、罪を神にあがなっていただくための、形だけの儀式だけでは不十分だということを、彼は承知していました。本心から罪を悔い改め、神に罪をあがなっていただく必要を理解していたのです。
51:20 御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。 51:21 そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。
>>>前半では、自分自身の罪に対する悔い改めと赦しに集中していましたが、後半になるにつれて、彼の視野は国全体に拡大していくのが分かります。王として立てられている自分が神の御前に正しくあることが、神に献げる礼拝と国全体を神に祝福していただくための、不可欠の条件だと理解し、告白する言葉でこの詩編は閉じられています。
◆話し合いのポイント・・・今回の聖書教育誌では、「悔い改め」について「神さまとの関係で罪を見つめ、心を注ぎ出すように悔い改め」ること大切さに着眼しています。そこが正される時に、形だけの礼拝ではなく、真実の礼拝が取り戻され、また、人と人との信頼関係にも違いをもたらすことが示唆されています。人の過ちを指摘し、悔い改めるようにと裁く代わりに、むしろダビデのように自分の過ちを人々の前にさらけ出し、神に赦しを請う信仰姿勢こそ、真の和解への道筋なのかも知れません。