西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題 「主イエスの御業を引き出す信仰」
黙想のポイント
・主イエスが評価した信仰とは、どのような信仰だったのでしょうか。黙想しましょう。
◆本日の箇所
2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
>>>病人を連れてきた人たちは、人の迷惑も顧みずにかなり大胆なことをしたと言うことができます。他人の家の屋根をはがし、主イエスが大勢の人々に向かって語っている最中に、目の前に病人を上からつり降ろしたのです。相当に非常識な振る舞いだと言わざるを得ないのですが、主イエスの反応はどうだったのでしょうか。主イエスは彼らの非常識さや無神経さを咎める代わりに、彼らの隣人を愛する思いの強さに目を止められたのです。どんなに非常識と思われ、他の人に一定の迷惑をかけ、屋根の修理責任を後で負わされるとしても、あるいは人からどのような悪評を付けられようとも、自分達の隣人をどうしても癒してもらいたいと彼らは考え、行動に移したのです。果たして私たちに同じことができるでしょうか。それだけ真剣に家族や友人を救いたいという思いを私たちは持っているでしょうか。また、それだけ主イエスに信頼し、多少の犠牲を払ってでも教会の仲間たちと協力し、主イエスの御業が起きるような環境を整えて行くことができるのかどうか、考えさせられます。
2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
>>>他方、そこに居合わせた律法学者たちは別のことに目を向けていました。主イエスが神を冒涜する言葉を口にしたことを問題にしたのです。その理由は、罪を赦す権威は罪深い人間の側にはなく、神の側にのみ存在すると理解していたからです。つまり、主イエスが自分を神に等しい存在としていることに重大な過ちを感じ取ったということでしょう。もともとこれは律法学者たちが口に出して発言したわけではなく、心の中で考えたことに過ぎませんので、そこまで非難される筋合いはないのかもしれません。その上でわきまえておきたいことは、常に何が正しいかを考えながら生きること自体は悪くありません。しかし、いつも人を評価し、裁くことが習慣になると問題が浮かび上がってきます。裁く心が強すぎると、本当に耳を傾けなければならないことを聞き逃したり、見抜けなかったりすることがあるからです。反面教師として受け止めたい箇所です。
2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
>>>主イエスが言わんとしていることは何でしょうか。それは、主イエスには地上で罪を赦す権威と使命が神から与えられているということです。これこそ民を導く律法学者たちに理解してもらいたい重要な教えでした。しかも「人の子」という意味の中には、律法学者たちや私たち自身も含まれることを今後の学びの中で確認したいと思います。この箇所を通して人の過ちや罪を赦すということについて考えさせられます。
2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
>>>主の御業は結果的には最善に導かれ、皆が神を賛美する礼拝の場になったことに感謝したいと思います。
分かち合いのポイント
・今月の主題に沿って、自由に分かち合いましょう。
P.S. 本年もどうぞ、よろしくお願いします。