西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
総合テーマ 「世の中で信仰を貫き通すには…どんな信仰が必要か、何が罠になりやすいか」
◆これからの三回の学びについて
士師記で登場する士師はオテニエル・エフデ・シャムガル(3章)、デボラとバラク(4-6章)、
ギデオン(6-9章)、トラ・ヤイル(10章)・エフタ(10-12章)、イブツァン・エロン・アブドン(12章)、
サムソン(13-16章)です。9月の残り3回はこの中のギデオンに焦点が当てられます。
6章1節によれば、ミディアン人が7年間イスラエルを抑圧していた時代があったことが語られています。ミディアン人はアブラハムの妻の一人であるミディアンに始まり、モーセの舅(しゅうと)のエテロもミディアン人でした。しかし、時代と共に偶像礼拝色が強くなり、イスラエル民族がカナンに移動中にモアブ人(アブラハムの甥ロトの子孫)と協力して呪術者ベオルの子バラムにイスラエルを呪わせようとしたことが民数記22章に語られています。この頃からイスラエルの敵になったものと考えられます。このミディアン人に苦しめられ、弱り果てていた時期に神が立てられた士師がギデオンでした。
黙想のポイント
・ギデオンが何故神に士師として選ばれたのか。文中にちりばめられているヒントを頼りに、神が僕に求めておられる資質、信仰とはどのようなものか黙想しましょう。
◆ギデオン
6:11 さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。
>>>ギデオンはミディアン人の来襲を警戒しているようです。しかし、それは必要以上にミディアン人たちを恐れているからではなく、安全を確保する知恵だと理解することもできます。そんな彼に主の御使いが彼をどのように見ていたのかが分かる言葉が次節に出てきます。
6:12 主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。
>>>主の御使いは彼を臆病な者と見るよりも、勇者として見ていることが分かります。そして、この勇者に「主はあなたと共におられます。」という聖書全体のテーマとなっている「共におられる主」という言葉を語って、祝福し、励ましています。この言葉にギデオンはどのように答えたでしょうか。
6:13 ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」
>>>ここでギデオンが冒頭で「お願いします」と返答しますが、それは何について「お願いします」と言っているのでしょうか。続く文脈は質問であり、訴えです。彼はイスラエルの民が神に見放されてしまっていると理解していることが伺えます。「どうして、現在は出エジプトの時のような神の御業がイスラエルの上に力強くのぞまないのか、どうして見捨てられたのですか」と受け取れるギデオンの会話ですが、直前の10節で明らかになっているように「わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。」という事実や神が出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記で繰り返し語って来た偶像礼拝にイスラエルが関わって神への信頼と服従を捨てる時、神が彼らの祈りを聞かれないということを知らなかったのでしょうか。だから、はばかることなく、どうか、私たちを助けて下さいと「お願い」したのでしょうか。
そうではなく、ギデオンは前節で御使いが「主はあなたと共におられます。」と宣言して下さった事実を喜び、謙虚に主が共にいて下さることが何よりも必要であることを認めていたからこそ、「わたしの主よ、お願いします。」という信仰告白の言葉が彼の口から出たのではないでしょうか。その上で、ギデオンは素直に自分の疑問を御使いにぶつけて、自分たちは見放されてしまったが、もはや神の憐みは期待できないのかと御使いに訴える言葉として受け止めることができます。
6:14 主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
>>>そんな彼の質問に対する御使いのしぐさにも注目したいと思います。14節の冒頭は「主は言われた」と書いてあってもおかしくない部分ですが、わざわざ「彼の方を向いて」という言葉があります。これはギデオンが主なる神が彼らを見放してよそを向いておられると訴えていることに対する返答の一部として受け止めることができます。つまり、主は彼と民にしっかりと向き合って下さっているというメッセージです。
そして、ここで語られる「あなたのその力をもって行くがよい。」とはまさに彼の素直な神の言葉への向き合い方、服従の姿勢を評価した言葉として受け止めることができます。つまり、ここで語られたこととは、「私が遣わすところへ持って行くべきは、まさしく、私があなたと共にいるのだという確信、その信仰の力なのだ」と語ったわけです。そして、「私はあなたを遣わし、あなたのその信仰を用いてミディアン人からイスラエルを救い出すことができる」のだと解釈することができます。すると、この箇所は神が彼の無力さや謙虚さを評価したのではなく、むしろギデオンが自分の力量にではなく、神の御業と力添えに信頼する信仰を持っていたことを評価した言葉として理解することができるのです。
6:15 彼は言った。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」
>>>彼はここで躊躇せずに質問をして、彼の理解を深めようとしています。彼には何故自分が選ばれたのか理解できませんでした。他により適任者がいるに違いないのに、何故自分なのかと彼は素直に疑問をぶつけているのです。これは私たちも参考にすべきです。聖書の箇所には、明らかに実行を促しているけれども、実行が難しい箇所があります。そこで私たちはもっと適任者に任せたいと考えてしまいます。そして、そのまま考え続けて実行を先伸ばしにしてしまうのです。しかし、ギデオンはそうではありませんでした。彼は実行すべき確信と勇気を持てるように神に祈り求めたのです。
6:16 主は彼に言われた。「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」
>>>そこで神は彼に言います。「主が共にいること」こそ、最大の武器にして必要不可欠の条件なのだと。その力はいかに絶大かということを「あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」と表現しました。
6:17 彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。
>>>しかし、彼はまだ解決しておかなければならない疑問が残っていたようです。それは、このお告げが間違いなくイスラエルの主なる神の命令だと確信したかったようです。そこで彼が提案した内容も一考に値します。また彼がただ、御使いの返事を待つのではなく、自分の側でできることを精一杯しようとする姿勢に注目しましょう。
6:18 どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」主は、「あなたが帰って来るまでここにいる」と言われた。
6:19 ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。
>>>彼は御言葉が本当に実行すべきものなのかどうか、御使いの返事があるまで、また確信が持てるまで先延ばしにする人ではありませんでした。彼の側でできる精一杯のことをしようとするギデオンがいます。その時、彼が行ったことは、イスラエルの民がかつてエジプトを脱出する際に神から命じられた決定的な信仰の服従の儀式である過越しの食事とよく似ています。また、信仰の父アブラハムがソドムとゴモラに向かう御使いたちに行った心からのおもてなしの場面によく似ています。
6:20 神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。
>>>せっかく御使いに食べていただくために持ってきた食材でしたが、神の使いはそれを食べる代わりに岩の上に置くように命じ、また肉汁をその上に注ぐように命じますが、ギデオンは素直に指示に服従します。
6:21 主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。
>>>代わりに御使いは犠牲を祭壇で神に捧げるような仕方で、ギデオンに岩の上に備えさせます。これによって結果的にはギデオンが持って来たものを御使いではなく、明らかなに神ご自身が受け取ったことが分かる仕方で彼が持ってきたものを取り扱って見せたのです。
6:22 ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」
>>>ギデオンはこの出来事を体験して心底怖れが込み上げてきたようです。自分の死を自覚するほどのものだったようです。しかし、そんな彼に主なる神の福音が再度語られます。
6:23 主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」
>>>ここで「安心せよ」と語られる言葉は言語で「シャローム」という有名な言葉です。現代でもユダヤ人たちが挨拶の際に用いる重要な言葉です。主イエスが復活後にマグダラのマリヤたちに語った言葉もこの「シャローム」でした。
6:24 ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。それは今日もなお、アビエゼルのオフラにあってそう呼ばれている。
>>>23節の「安心よせ」も24節の「平和の主(言語でアドナイ・シャローム)」も共にシャロームという言葉が使われています。また、どちらも言語では主+平和が原文で用いられています。そこでこの節を私なりに訳すと「主はシャローム(と私に語られた)」と言う名前を祭壇に付けたと解釈できます。それほど、「シャローム」という言葉が励ましと力に満ちていたのではないでしょうか。
分かち合いのポイント
・ギデオンに学ぶ主なる神が私たちに求めておられる信仰姿勢について、互いに考えや体験を分かち合いましょう。