2017年7月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 7/5 創世記2章1-3節「安息なさった神さま」
西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
総合テーマ 「神の人格と意志」
◆前回までのまとめ
第1章で神が六日かけてこの世界をひとつひとつ丁寧に創造されたことが語られます。全能の神が一瞬にしてこの世界を創造せずに、ひとつひとつ「見て良しと」しながら忍耐強く順番に創造していかれます。また、創造したものに名前を付けながら、それぞれに存在意義を与えて行かれます。聖書が冒頭で明らかにしているのは、聖書の神の特徴的な人格についてです。その理由は、この世界を創造した神がいることを人類が忘れて生きていることと、もし本当の創造神について教えている宗教があるとすれば、どの宗教の神が本当の神なのか判別できなくなっているからにほかなりません。
もう一つ、今回までの箇所の特徴として、「神は」という主語が執拗に繰り返し書かれていることに気づかされます。第1章~第2章3節までで(34節中34回の割合で頻繁に登場)、意図的にそのように書かれていると考えられます。その目的は、聖書の主語が神であることを明確に読者に印象づけるためだと考えることができます。
黙想のポイント
・そもそも聖書の最大の目的は、神の存在を忘れて自分勝手に生きながら滅びに向かっている人類に対して「神の人格と意志」を明らかにし、悔い改めて神の意志に従って生きる新しい次元の人生に招き入れることにあります。聖書の始めの書である創世記はこのテーマに焦点を当てながら読むことが求められています。創世記について様々に教える書籍や学習方法論がありますが、この点を大切にして行くことをお奨めします。一般的に宗教とは「人はいかに生きるべきか」を教えるものだと考えられています。もちろんキリスト教もそのテーマを重要な要素として含んでいます。しかし、キリスト教の場合には、「人はいかに神と共に生きるべきか」が中心主題です。神の人格と意志を抜きにしては正しく学べない宗教です。今月の創世記の3章までの学びの中で、ご一緒にこの世界を創造された神の人格と意志について御言葉に聞いて行きましょう。
◆今回の箇所…
2:1 天地万物は完成された。
>>>「本来ならば、2章の3節までが1章に含まれるべきではないか」という議論があります。2章の4節から2章が始まった方が自然な流れになるのではないでしょうか。それでも敢えて聖書はこの2章1節~3節を第1章と分けたのは何故でしょうか。様々な理由が考えられますが、安息日と呼ばれる第7日目はそれだけ特別なものとして他の曜日と区別すべきことが強調されていると考えられます。
ユダヤ教ではこれに従って、第7日目に当たる土曜日(金曜の日没から土曜日の日没までを指す)を安息日として今日まで大切にして来ました。キリスト教では午前0時を曜日の始まりに変え、安息日である土曜とキリストが復活し、かつ聖霊降臨が起きた日曜日を一週間の中で特別な日とし、休息と礼拝に充てる日にするようになりました。
ただし、現代のキリスト教界ではこの安息日の精神はかなり曖昧となり、正しく守られているとは言い難い現状があるようです。今回の学びを通して、神がなぜこのような特別な日を定められたのか再確認し、一週間の日の過ごし方を振り返りましょう。
2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
>>>この表現は、一週間の過ごし方の模範・型を明らかにしています。つまり、7日毎に、完全に仕事などの日常生活から離れて安らかな息(安息)を取り戻すということです。現代人の生き方を見る時、あらゆること…仕事、家庭、子育て、介護、娯楽、趣味、勉強、目の前の必要事項等々に忙殺されて休む暇もなく活動している人のなんと多いことでしょうか。そこには自分が本来何のために生まれて来たのか、自分と神との関係を見つめ直したり、悔い改めたり、方向転換をして、神の御前に静かに一日を礼拝のために献げるというようなゆとりがあるとは到底言えません。
神は自ら模範を示し、安息をすることの大切さを示しておられます。あなたや周りの人でこの安息を失っている人はどれだけいるでしょうか。礼拝を通して神の存在目的に立ち帰り、安息を取り戻して行きましょう。
2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
>>>私たちが神の御心に従って安息を取り戻しながら生きるために、まず最初に取り掛かるべき課題が何であるかが、示されています。それは神が「すべての創造の仕事を離れ」たのと同じように、私たちもすべての仕事(娯楽や趣味も含む)から離れて、神のようにその日を祝福し、聖別することだと示されます。
このように考えると、私たちがどのように神が定めた日を過ごすべきかが次第に見えて来ます。必要最低条件とは、日常の仕事や娯楽なら完全に離れること、その上で祝福と聖別に専念することだと示されます。
それでは、祝福や聖別とは何を意味するのでしょうか。祝福とは幸福を心から祈り願うことです。神が安息日になさったのはまさにそのことだと言えます。六日目までの一週間を振り返り、そこで関わったすべてのものを祝福し、喜び、その幸福を心から祈っています。聖別とは、俗の反対で、本当に価値ある清い一日にすることを意味し、神への畏敬と感謝、神の人格と意志をしっかりと受け止め直す時として大切にすることだと言えます。従って祝福と聖別、それは言いかえると神と他者を愛し、神を神として心から礼拝することだと言えます。安息日ごとにこの原点に立ち返って生活する時、人は新たな生きる使命と喜びと勇気を復活させながら、様々な課題に再チャレンジして生きて行くことができるのではないでしょうか。もし、最近疲れが抜けず、不満が増えていたり、怒りっぽくなっていることが多くなっているならば、聖書が指し示す原点に立ち返って見ることをお奨めします。神の祝福を肌で感じ、安息を取り戻して下さい。
分かち合いのポイント
・日曜日を上記のような目的で過ごした時の祝福や違いについて、互いにそれぞれの経験を分かち合いましょう。