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主日礼拝宣教要旨

2017年5月28日(日)礼拝宣教要旨「まことのぶどうの木につながる」ヨハネによる福音書15章5節

西川口キリスト教会 新田 裕子

「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である」

ヨハネによる福音書15章15節

 

ヨハネによる福音書の15章を3つのキーワードから読んでみましょう。

 

「まことのぶどうの木」

1節の「わたしはまことのぶどうの木」という言葉から、旧約聖書に書かれている、神に背いた「ぶどうの木」とは違い、「わたしこそが神様が認めたぶどうの木」であるという、強いイエス・キリストからのメッセージが語られています。

 

「つながる」

4節に「わたしにつながっていなさい」とあります。キリストの力を受けて、神様からの使命をいただき、神様の業を行っていく事が、すなわち「つながる」、「実を結ぶ」ことです。

では神の業とは何を意味しているのでしょうか。それは「愛」なのです。各自がイエス・キリストにつながっていると同時に、主の家族とつながる、隣人とつながることなのです。互いに愛し合うことで生まれてくる、恵みや幸せが、「まことのぶどうの木」につながることであり、豊かな実を結ぶのです。互いに愛し合うことで教会の運営は成り立っています。

奉仕はみなさんがイエス・キリストにつながっているから、神様の使命をいただいているから出来るのです。これが「まことのぶどうの木」につながることです。

 

「取り除かれる」

2節に「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」とあります。イエス・キリストにつながっていながら実を結ばない枝は取り除かれるのです。これはこの世的な打算的な思いをもって、キリストに仕えている者たちへの警告です。自分一人では何もできないことを知り、ただ「まことのぶどうの木」であるイエス・キリストに、よりたのみ、離れずにいることが大切なのです。信仰を持ったら、バプテスマにあずかったら、全てがうまくいくわけではありません。この世が与える恵みや幸せの武装をしていると、本当のみ言葉が見えてきません。いつも、み言葉と自分自身を吟味していかなければ、神様から剪定されてしまいます。

イエス・キリストにつながる枝として、ただ主により頼み、互いに愛し合う信仰者でありたいです。

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