総合テーマ 立場を弁える幸い
◆前回からのあらすじ…
25章で「十人のおとめ」を含む終末についてのたとえを語った後、主イエスは終末の裁きについて語ります。
続く26章では主イエスを殺す計略が企てられ、ベタニア村でからだに香油を注がれ、ユダが裏切りを企てる話へと続いて今回の過越しの食事の話しに繋がります。
黙想のポイント
*自分の弟子に裏切られることを知りつつ、主の晩餐を行い、オリーブ山へと向かわれた主イエスの心境を黙想しましょう。
◆過越の食事をする
26:17 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。
26:18 イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」
>>>ここで語られる「都のあの人」とはだれのことか示されませんが、弟子たちとの間で、すでにどこに行けばいいのか、それだけ言えば通じる相手だったことが分かります。
26:19 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。
26:20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
26:21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
>>>「はっきり言っておく」には「アーメン、私は言う」という言葉が原語では使われており、主イエスが重要なことを弟子たちに言う時によく用いた言葉です。この後、ゲッセマネで主イエスを見捨てて方々に逃げて行く弟子たちのことではなく、特定の一人が裏切ろうとしていることを語ります。
26:22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
>>>この主イエスの言葉は弟子たちには衝撃だったようです。「非常に心を痛め」たことが語られています。
26:23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
>>>注解書によれば、この鉢の中身はパンを浸すためのフルーツソースで、果物と香料と酸味料を混ぜたソースだったようです。
26:24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
>>>これほどまでに誰かの人生について否定的に表現する主イエスの言葉は思い浮かびません。ユダの裏切りがどれほど主イエスの心に暗い影を落としていたかがうかがい知れます。
26:25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
>>>ここには注目すべき内容がいくつかあります。まず、主イエスの会話に割って入る、冷静さを失っているかのようなユダの行動が語られます。弟子たちの中に裏切り者がいることを聞いたこと、そして「その者は生まれなかった方がましだ」との主イエスの評価に、さぞユダは戸惑ったことでしょう。そんな彼だったからこそ、つい場をわきまえずに主イエスの会話に割って入ってしまったのでしょうか。22節では、他の弟子たちは主イエスに「主よ」と呼びかけていました。これに対し、ユダは一般の人々が用いる「先生」という言葉を使っています。この恩師への言葉遣いの中に、他の弟子たちとユダの主イエスへの信頼の違いを見ることができます。このユダの言葉に対して主イエスは「それはあなたの言ったことだ」と答えます。少々日本語としては分かりにくい訳になっていますが、直訳すると「あなたが言ってしまった…」となります。これはまるで途中で会話を中断したような中途半端なセリフです。主イエスはユダこそ裏切り者だと言うことを隠すための配慮だったのか、それともあまりにも切なくなってその後の言葉が口から出なかったのか、この後には次のような言葉が続くのかも知れません。つまり、「あなたが言ってしまった言葉の中に、他の弟子たちと違って私をどのように見ているかが分かる。その違いこそ、あなたに理解し、悔い改めて欲しいのだが…」と主イエスは言いたかったのではないでしょうか。主イエスの心の痛みを黙想すべき箇所と言えます。
◆主の晩餐
26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
>>>ここで注目したいことは、主の晩餐がユダの裏切りの話しの直後に語られている点です。主イエスは、自分自身を神の預言の言葉に完全に委ねようとしていました。主イエスが何者なのか、そして何を成し遂げるためにこの世に来たのか、なぜ十字架に架けられて死ななければならないのか。これらを主イエスのすべてをかけて、明らかにしようとされていた時期に、主イエスと長期間特別に寝食を共にしながらも、主イエスの気持ちを全く理解しないユダでした。そのユダが主イエスを裏切るだけでなく、自分の命をこの後に自分で絶ってしまうことが、主イエスは無念でならなかった事でしょう。
その一方で主の晩餐の時の主イエスは、賛美の祈りを唱えつつパンを裂いて弟子たちに配っています。本来ならば、賛美の祈りを心からするのは難しい局面だったはずです。
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
>>>同じように、杯を配る時、今度は感謝の祈りを唱えます。主イエスは十字架を目前にしながらも、賛美、そして感謝の祈りを忘れませんでした。すべては私たちが希望の中に生きる者となるために。
26:29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
>>>主イエスは間もなくゲッセマネの園で捕えられ、十字架に付けられて殺されてしまいます。そのことを主イエスは見通していたことを、後で弟子たちはこの言葉から理解したことでしょう。
26:30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
>>>主イエスはなおも、将来の希望を語り、賛美を歌ってからオリーブ山へと最後の祈りをするために出かけて行かれました。およそ賛美などできそうにない時に賛美をされた主イエスでした。しかし、このような時にも賛美や感謝が溢れ出て来たのは、復活の希望があったからなのではないでしょうか。
分かち合いのポイント
・あなたが裏切られたり、挫折しそうになる時に励ましとなるのは何でしょうか。主イエスの模範から示されることを互いに分かち合いましょう。