2017年2月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 2/5 マタイ11章2-19節「来るべき方、イエス」
総合テーマ 主イエスの福音宣教の特色
◆前回までのあらすじ…福音宣教の緊急性を痛切に実感した主イエスは、弟子たちを二人一組にして町々に派遣するに当たって、福音宣教に際しての心構えと注意点を教えられました。そして、弟子たちを派遣すると、主イエス自身も宣教活動を継続されました。
黙想のポイント
*主イエスとバプテスマのヨハネの福音宣教の特色(その違い)について黙想しましょう。
◆洗礼者ヨハネとイエス
11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
>>>バプテスマのヨハネはヘロデ王に刃向ったために恨みを買い、投獄されていました。彼は主イエスこそ、世を裁き、世の罪を取り除く神の小羊だということを聖霊によって示されていましたが、それでも確信を持てないでいたようです。
11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
>>>主イエスは「論より、証拠」で、実際に主イエスが行っている神の御業そのものを聖書の預言と照らし合わせて考えるならば、きっと分かるはずだと言いたかったのではないでしょうか。主イエスが何者なのかを理解し、救い主だと確信する方法は、昔も今も同じだと言えそうです。
11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
>>>私たちもバプテスマのヨハネ同様に問われます。私たちが期待する救い主とは、私たちの理想とする救い主なのか、それとも聖書が指し示している十字架に付けられてあがないの死を遂げて行かれる救い主なのか。それによっては、私たちもつまずきかねないのです。
11:7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
11:8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
11:9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
>>>主イエスはバプテスマのヨハネこそ、旧約聖書マラキ書3章の最後に預言されている、救い主の前に登場するエリヤの役割を果たす大預言者だと語ります。
11:10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
>>>ヨハネは誰よりも熱心に人々に悔い改めて神に立ち返るように宣教し、またキリストの到来について宣教し、神の裁きについて宣教しました。それは極めて重要な働きであったと主イエスは評価しました。一方で、彼は主イエスのように(5節に書かれているような)憐み深い生き方をし、神の裁きではなく、神の憐みと義を表す生き方を十分にすることはできませんでした。天の国は裁き合う場所ではなく、むしろ神の義が全うされる場所であることを考える時、主イエスが何を言わんとされているのか少し分かる気がします。
11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
>>>しかし、現実はそう簡単ではなく、神の義を貫こうとする者には大きな戦いがあることを主イエスは理解していました。主イエスはバプテスマのヨハネが、そして自分がどのような死を遂げて行くのかを理解していたのかも知れません。
11:13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。
11:14 あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
11:15 耳のある者は聞きなさい。
>>>マラキ書3章に語られている「エリヤ」とはヨハネの事だと主イエスははっきりと宣言されました。
11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
>>>エリヤが遣わされ、キリストが遣わされ、福音が伝えられても、人々は理解せず、言い訳ばかりして、本当の意味で悔い改めて、神の御心に従おうとしないたとえだと考えられます。
分かち合いのポイント
・主イエスはバプテスマのヨハネの役割をとても評価しています。一方では、それだけでは不十分だと語っています。私たちは果たしてどうでしょうか。いつの間にかバプテスマのヨハネのように人々の罪を裁いてばかりいたり、信仰の未熟を言い訳にして、主イエスが従うように導いておられる生き方から遠ざかっている現実はないでしょうか。