ようこそ西川口キリスト教会のホームページへ

地域と共に歩む桜並木の教会

教会員ページ
主日礼拝宣教要旨

2017年11月19日(日) 礼拝宣教要旨 「幸いに至る道を選び取る」エレミヤ書6章16節 

西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師

『主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」』

 

エレミヤを通して主なる神が語る「さまざまな道に立つ」ことは、試練や苦しみのただ中で神の御心に耳を傾けることが含まれます。また、その経験を神は用いて他者の苦しみを理解させ、寄り添うように導かれます。そして御言葉に聞き、「昔からの道に問いかけ…その道を歩」むことの大切さも示されました。その根拠は、御言葉の実行が不可能と思えるような状況の中でも、神が常に寄り添って最善に導いて下さることが聖書の随所に証しされているからです。

これらを踏まえた上で、私たちにはもう一つ重要な理解が必要です。それは主なる神の罪に対する怒りを認識することです。6章11節にはエレミヤが「主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。」ことが語られています。キリスト教は神の愛と赦しを強調します。そのため神がどれほど罪を憎み、怒りを覚えておられるかということを過小評価してしまいがちです。しかし、神は御子イエス・キリストを十字架にお付けになるほどに、罪を根絶したいと願っておられる神であることをわきまえたいと思います。二度と、主イエス・キリストを私たちの罪のために、十字架に付けるような過ちは決してしないという強い覚悟が必要なのです。

しかしながら、現実にはそれがなかなかできないのが私たちです。そればかりか、時には人生と信仰に疲れ、聖書を読むことも祈ることもできない状態に陥ることがあります。その時には、十字架に架けられてなお、罪人のために執り成し祈られた主イエスを仰ぎ見ましょう。「イエスさま、このような私のために祈って下さい」と祈る信仰から、新たな力が湧いてきます。エレミヤも、神の御心を知れば知るほど、それに耐えられなくなり、疲れ果てたと言います。だれしもそんな時があるのです。しかし、エレミヤは最後までその使命を果たしていくことができるのです。私たちも十字架の主イエスを仰ぎ見つつ、共に信仰の道を歩み続けましょう。

関連記事

PAGE TOP