西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
総合テーマ 「 苦難に正しく向き合うための信仰 」
◆今回の学びを始めるにあたっての前提
ヨブ記では最初の2章までの話しを通して神とサタンとの会話やヨブが一度に複数の災いに遭っていく経緯が語られます。3章では長い沈黙の後にようやく口を開いて友人たちに聞こえる声で神に訴えるヨブの言葉が始まります。そして4章~14章にかけては、ヨブを訪ねて来て、七日七晩、ヨブと共に地面に座って話しかけることもできなかった3人の友人たちとそれぞれ1回ずつ対話して行きます。最初はテマン人エリファズで、エサウの子孫であるエドム人に属していたと考えられています。次に8章でシュア人ビルダドと。彼はアブラハムの後妻ケトラの子シュア(歴代誌上1章32節)の子孫とする説があります。そして3番手はナアマ人ツォファルですが、聖書ではナアマという名前はソロモン王の妻で南王国ユダの王にもなったレハベアム王の母ナアマ(アンモン人)しか登場せず、関係があるかどうかは不明です。この3人との対話が一通り終わると、15章~21章まで友人3人との2順目の対話が行われます。そして22章~31章まで3回目の対話が続いていくのですが、今回の箇所は2順目の2番手だったシュア人ビルダドが話した後のヨブの言葉です。
黙想のポイント
・ヨブが置かれている現状を通して、ヨブの苦しみの深さを改めて黙想しましょう。
◆
19:1 ヨブは答えた。
19:2 どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ/言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3 侮辱はもうこれで十分だ。わたしを虐げて恥ずかしくないのか。
19:4 わたしが過ちを犯したのが事実だとしても/その過ちはわたし個人にとどまるのみだ。
19:5 ところが、あなたたちは/わたしの受けている辱めを誇張して/論難しようとする。
>>>このようにヨブが主張する背景として、たとえば8章4節の第一順目のビルダドとの会話で、ビルダドは「あなたの子らが/神に対して過ちを犯したからこそ/彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。」と言い、愛する子どもを無残に失ったばかりのヨブに対して決して口にしてはならない言葉をかけています。友を励ますつもりだったはずの3人が結果的には友をさらに苦しめてしまうことになります。どうしてこのようになってしまうのかが私たちへの問いであり、現代の教会の課題として提示されています。そして、この世にはなぜ非常に耐え難いことが善人の身にも起きるのか。なぜ神はそれを赦しておられるのかという問いに通じていますが、その辛い現実をさらに耐え難いものにしてしまう人間の言葉による罪が問われているのです。
19:6 それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし/わたしの周囲に砦を巡らしていることを。
19:7 だから、不法だと叫んでも答えはなく/救いを求めても、裁いてもらえないのだ。
19:8 神はわたしの道をふさいで通らせず/行く手に暗黒を置かれた。
19:9 わたしの名誉を奪い/頭から冠を取り去られた。
19:10 四方から攻められてわたしは消え去る。木であるかのように/希望は根こそぎにされてしまった。
19:11 神はわたしに向かって怒りを燃やし/わたしを敵とされる。
19:12 その軍勢は結集し/襲おうとして道を開き/わたしの天幕を囲んで陣を敷いた。
>>>自分の側にある罪を認め、神に赦しを請う以外に現状からの救いは有り得ないとする友人たちに対して、ヨブは神には何らかの目的があって、わざと自分をこのような状況に追いやっているのだから、「もうやめて下さい、これで終わりにして下さい」と言う以外にないと主張します。
19:13 神は兄弟をわたしから遠ざけ/知人を引き離した。
19:14 親族もわたしを見捨て/友だちもわたしを忘れた。
19:15 わたしの家に身を寄せている男や女すら/わたしをよそ者と見なし、敵視する。
19:16 僕を呼んでも答えず/わたしが彼に憐れみを乞わなければならない。
19:17 息は妻に嫌われ/子供にも憎まれる。
>>>17節後半の「子供にも憎まれる」は口語訳では「わたしは同じ腹の子たちにきらわれる」、新改訳では「私の身内の者らにきらわれる」と訳されています。
19:18 幼子もわたしを拒み/わたしが立ち上がると背を向ける。
19:19 親友のすべてに忌み嫌われ/愛していた人々にも背かれてしまった。
>>>ヨブが受けていた苦しみは時間とともにさらに過酷さを増していたことが伺われます。親戚、親しい友人知人たち、そして家の使用人たちさえヨブを拒否し、嫌うようになっていたことが分かります。ヨブが受けていた苦しみが尋常ではなかったことが改めて浮き彫りにされる箇所です。神にも、人にも、最も親しい友人たちにさえ捨てられた存在となったことを自覚したヨブでした。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と十字架の上で神に叫んだ主イエスの言葉を連想せずにはいられません。
19:20 骨は皮膚と肉とにすがりつき/皮膚と歯ばかりになって/わたしは生き延びている。
19:21 憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ/神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。
19:22 なぜ、あなたたちまで神と一緒になって/わたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか。
19:23 どうか/わたしの言葉が書き留められるように/碑文として刻まれるように。
19:24 たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され/いつまでも残るように。
19:25 わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。
19:26 この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。
19:27 このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。
19:28 「我々が彼を追い詰めたりするだろうか」と/あなたたちは言う。この有様の根源がわたし自身にあると/あなたたちは言う。
19:29 あなたたちこそ、剣を危惧せよ。剣による罰は厳しい。裁きのあることを知るがよい。
>>>ヨブは力を振り絞りながら、自分と共に7日間無言で苦しみを共にしてくれた友人たちに向って神の側にではなく、ヨブの側に共にいて寄り添って欲しいと懇願します。どんなに孤独だったことでしょうか。それがもう一つの人生における深刻な苦痛だと言えるでしょう。そんなヨブの苦痛が続く中で、ヨブは驚くべき信仰を見せます。25節以降で語っているように、彼は神への望みを失ってはいませんでした。神への信頼を放棄してはいませんでした。「死んでもなお、私は神の愛の内に生きる人間」それがヨブが貫き通そうとしていた信仰でした。主イエスは生前ヨブ記19章をどのような思いで、読まれたのでしょうか。
分かち合いのポイント
・苦しみを分かってもらえない人の苦しみについて考え、私たちはどうそのような人に寄り添うことができるのか分かち合いましょう。