2017年1月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 1/08 マタイ5章1-12節「幸い」
総合テーマ キリストに従うように招かれている私たち
黙想のポイント
◆山上の説教を始める
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
*歴史にその名を刻んだ主イエスの山上の説教、それはどのようなきっかけから始まったのでしょうか。そこには、群衆のどのような眼差し、主イエスのどのような眼差しがあったのでしょうか。1節の描写から無言のままに過ぎてゆく時間、しかし、それぞれに様々なことを思いながら過ぎてゆく時間。世の中の様々な思い煩いから解放され、主なる神の御言葉の前に沈黙することの大切さに思いを寄せたいと思います。
◆山上の説教を始める
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
>>>2節に「そこで」イエスは口を開いたと語られています。ここでわざわざ挿入されている「そこで」とは、一定の条件が整ったので主イエスが教えを開始されたことを指すと考えられます。しかも、「そこで、教えられた」ではなく、「口を開き」という言葉にも著者マタイの思いが込められているようです。主イエスの覚悟や決意が込められていることが伝わって来ます。期待して待つ群衆に対して、またその後の歴史を越えて語り継がれ、やがて聖書となって全世界へと伝えられて行くことになる山上の説教の言葉。それを主イエスは意識しながら口を開かれたのでしょうか。ここにはそのような厳粛な時間の流れと主イエスの覚悟、群衆の期待のようなものが感じられます。
・この条件が整うためには何が必要だったのでしょうか。1節によれば冒頭でイエスがまず「この群衆を見て」とあります。見るという漢字には「診る」という漢字もありますが、主イエスはその群衆が持っていた人生の様々な必要を見抜かれたことだろうと思います。そこで、その群衆と特別な時間を持つために敢えて山に登ったというのが今回の個所ではないかと思います。しばしば主イエスは神との特別な時間を持つ時に山に退かれて祈っておられます。この時も、主イエスは群衆を神の言葉に集中させるために山に登られたのかも知れません。いずれにしても、主イエスが山に登る行動は、群衆を見て起こされた行動であることがここで強調されているのです。
・山とは、実際にはガリラヤ湖畔に面したなだらかな丘の上であったと考えられています。対岸までが見渡せるとても雄大な景色が広がる場所でした。
・ある程度登ったところで主イエスは腰を下ろされます。それに合わせて弟子たちが近くに寄って来て座る…。主イエスを通して語られる神の御言葉を聴く、弟子たちの心の準備が整って行ったのです。
・年頭に当たり、神の御言葉に預かる私たちの礼拝姿勢、心の備えが示されるような箇所です。日常の雑多な事柄を多く抱えたままでは、なかなか神が私たちに伝えたいと願っておられることを聴き、受け止めることは困難です。 そのような日常の中で、日々神の御前に静まる場所を確保すること。あるいは週の半ばに祈祷会などの場所に共に集うこと。そして主の日には共に礼拝の場に集い、静まって共に神の御言葉に集中する時を持つことは現代に生きる私たちには極めて大切なことではないかと示されます。
◆幸い
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
>>>非情に短い文章でまとめられた9つの幸いのメッセージには、神の幸いの中に私たちを導き入れられたいという一途な思いが伝わってくるのではないでしょうか。神は冒頭3節と10節で語られているように「天の国」を与えたいと願っておられます。そして4節)私たちを慰め、5節)私たちに地を継がせ=将来に希望を持つことができるようにし、6節)私たちの心を満たし、7節)私たちを慰め、憐み、8節)神を見ることができる信仰を与え、9節)神の子とし、12節)天の御国に迎え入れ、特別に祝福したいと願っておられることが語られています。
・主イエスの口から語られたこれらの言葉は純粋で混じりけのない神の意志、思いだとするならば、なんという神の深い愛と憐みの言葉でしょうか。
分かち合いのポイント
・このような神の思いと約束の中に生きることが赦されている私たちです。当時の人々も、現代に生きる私たちも、共に必ずしも幸いとは思えない環境、状況の中に生きています。しかし、それでも主イエスは当時の彼らを導き、共に苦しみ、希望の言葉を掛けられたように、今日の私たちにも希望の言葉を掛けられています。そして、彼らが幸いの中を生きることができたように、信仰の目を開らかれて、主イエスがこの一年を特別な幸いに満ちた一年にして下さることを信じる者たちでありたいと願わされます。
・12節で主イエスが特に強調しているように、試練や迫害の中でさえ、神は喜ぶことができるように導いて下さいます。このような信仰の深い次元にまで近づいて行くことができる神の恵みに感謝しましょう。