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主日礼拝宣教要旨

2017年1月15日(日) 礼拝宣教要旨 「アダムの罪と神の対応」創世記第3章8-13節

2017年1月15日(日) 礼拝宣教要旨 西川口キリスト教会 斎藤信一郎

 

主題)「アダムの罪と神の対応」創世記第3章8-13節

「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。」3章8節前半

 

神の戒めに背き、自分たちが不完全で裸だということを自覚したアダムとエバは、神の呼びかけに対して恐れを抱き、神の顔をまともに拝めず、神から自分を隠す存在へと変化して行きました。しかも、神の御前に罪を告白するどころか、罪を犯してしまった理由を他人のせいにし、また神のせいにさえしました。

これに対する神の対応はどのようなものだったのでしょうか。善悪の木の実を食べた瞬間に登場して、彼らが罪を犯した決定的な現場を押さえ、その場で罰することもできました。しかし、神はそうはなさらず、夕暮れ時まで彼らをそのままにされました。彼らに罪を認め、自首する猶予を与えるためだったのでしょう。さらに神は園の中を歩む足音を聞かせ、彼らに神と向き合う心の準備をさせます。その上で彼らに「どこにいるのか」と語りかけられました。彼らがどこにいるのか分からなかったからではありません。彼らに自分たちがどれほど心理的に神から遠ざかっているかを悟らせるためでした。残念ながら神の配慮に対して、アダムとエバは開き直った態度を取り、罪を認めようとしませんでした。しかし、神は彼らがどこから罪に堕ちたのか、忍耐強く彼らを導いて行かれます。そして「なんと言うことをしたのか。」(13節)と彼らが犯した罪の深刻さを悟らせようとします。どれほど心の痛みを伴うものだったことでしょうか。

このアダムとエバに向けられた神の言葉と対応は、全人類に向けられたものでもあります。キリスト教における最重要語に「悔い改める」という言葉がありますが、これには「方向転換をする」という意味があります。神から遠ざかって生きていることを自覚し、正しく神に向き直って生きることを意味する言葉です。教会で行うバプテスマ(洗礼)は悔い改めの信仰を象徴する信仰の出発点です。共にここから出発し、キリストの十字架を共に担い合って生きる新たな一年にして行きましょう。

 

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