2016年8月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 8/20日 列王記上19章1-18節「ここで何をしているのか」
総合テーマ 預言者の使命
予備知識…18章~今回の箇所までの概略
前回)エリヤは神の指示でアハブ王と民をカルメル山に来させ、バアルおよびアシェラ像に仕える預言者たちの神とイスラエルの神のうち、どちらがまことの神なのかをはっきりさせます。そして何も証明できなかったバアルとアシェラ像を拝ませる預言者たちを全員殺させます。いかにも大胆で筋金入りの大預言者の姿を見せたエリヤでしたが、この後まさかの展開が19章で待っていました。どちらが本当のエリヤなのでしょうか。
黙想のポイント
・19章に見るエリヤは、燃え尽き症候群にかかったとしかいいようのないような、臆病で、言い訳を神に対してするような、どこか私たちとそう変わらない欠点を併せ持っている人物像が見えてきます。信仰生活は順調な時だけではありません。信仰者として、共同体あるいは異教社会の中で頑張って来た故の疲れや限界を感じる時もあります。そのような中で、神はどのようにエリヤを導かれたでしょうか。そこに、信仰的に弱った時の神の処方箋があるようです。
◆ホレブに向かったエリヤ
19:1 アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。
19:2 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
19:3 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、
19:4 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
>>>あれほど大勢のバアルとアシェラ像の預言者たちとアハブ王を恐れなかったエリヤでしたが、王妃イゼベルが彼を脅すと、彼は恐怖に囚われて逃げ出してしまいます。そして、神の御前に弱音を吐いて死ぬことを望みます。エリヤはイスラエルの歴史上、比類なき神の預言者でしたが、私たちが思い描くような完全無欠の人間では決してありませんでした。権力者と暴力を恐れ、逃げ出してしまう一面を持っていました。しかし、彼にはまだ重要な使命が残っていました。サムエル同様に神がエリヤに次に全うするように与える使命とは…
19:5 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
19:6 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。
>>>エリヤは神に真剣に祈って直談判している最中に疲れを覚えたのか、そのうち横になって、つい寝てしまいました。すると御使いが現れ、枕元に置かれたパン菓子を食べ水の瓶を飲み、また眠り込んでしまいます。これはエリヤが霊的に燃え尽き症候群(バーンアウト)になっていることを示す証拠の一つではないでしょうか。神に、真剣に自分の訴えを聞いてもらいたい時に、途中で疲れて中断してしまうのです。そんな時に神から御使いが遣わされ、彼に焼いたパン菓子と水が与えられます。私たちの教会のある姉妹が、疲れた時はアンパンと水に限ると言いましたが、まさにエリヤがここで与えられているのはパンではなく、パン菓子です。どこか出エジプト記に登場するマナを連想させますが、甘さがあるパンだったのでしょう。疲れを癒す甘いパン菓子と、渇きを癒す神が与える水によって、少しづつ回復していくエリヤでしたが、1回だけでは足りなかったようです。再び彼は眠ってしまいます。大仕事の後に、時には一端退いて霊的な休養を取ることの必要性が語られているように思います。霊的な休養が必要かどうかをはかるバロメーターは、祈る体力と気力が十分にあるかないかで判断するのも一つの方法だと示されます。また、エリヤがしてしまったように、いつの間にか祈りなしに物事を判断し、行動してしまう時も要注意です。
19:7 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。
>>>再び御使いが現れ、起きて食べるように命じます。御使いは彼が途中で眠ったことをとがめたりしませんでした。その代わりにしばらく彼に休養の時間を与えるために彼から離れ、再び戻って来てわざわざ手で彼に触れて(非常に近くまで来て体に触れてという、親密で心のこもった仕方で彼を)起こし、同じように食事を取ることを勧めました。そして、神が今度は長く耐え難い旅を彼のために計画していることが伝えられます。
19:8 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
>>>神から与えられた特別な食物を食べて、エリヤは力を回復して行きました。その結果、彼はなんと四十日、四十夜荒野を歩き続けたと言うことです。その結果、たどり着いたのはイスラエルの民が出エジプトの時にモーセと共に導かれたホレブの山(=シナイ山)でした。そこは十戒を神から授かった場所でもありました。言わば信仰の原点のような場所です。この箇所には、厳密にはホレブの山に行くようにとの御使いの指示はありません。しかし、神の大きな御手の中で、ことが進んでいるということでしょう。彼はそれほど主の御心に従っているという自覚はなかったかも知れませんが、神の憐みによって彼にとって重要な場所に導かれていたのです。
19:9 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
>>>エリヤは神から、ここで何をしているのかと問われます。すると、彼はイスラエルの民に責任転嫁し、自分の命を狙っていると言い訳をします。このエリヤの返事には、神の指示に従って体力を回復後、ホレブの山に来たと言う意識はありません。新たな神の使命に向き合う信仰と気力はまだ取り戻していないようです。
19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
>>>洞窟にいたエリヤに神はなおも語りかけられます。その時、山を裂き、岩を砕くほどの激しい風、地震、火が次々に起こります。これらはどれも私たちに恐れをいだかせる自然災害ばかりです。イゼベルにエリヤが感じた身の危険への恐れと、本質的には同じようなものと考えることもできます。人生には私たちを恐れさせる様々な要因が存在します。そしてそれらに対して聖書は繰り返し「しかし、…の中に主はおられなかった」と語るばかりです。その後で静かにささやくような声が聞こえて来ます。なんと対照的な表現でしょうか。この聞こえるか、聞こえないかというような声を通して神はご自身をエリヤに現されるのです。エリヤに何が本当に大切なのかが示されています。それは神から遠ざける、あらゆる恐れの背後に隠れて聞こえて来る、神の御声に集中することだったのではないでしょうか。
19:13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
>>>再びエリヤは神から同じことを問われます。彼に大事なことを気付かせるかのように。しかし、エリヤはまだ神が彼にこのように問いかけられている意味をまだ理解できませんでした。そして同じように前回同様に応えました。
19:14 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
>>>エリヤは再び同じように神に返事をします。自分が一生懸命に神に従って来たこと、しかしそれでも最後の預言者である自分の命が執拗に狙われていることを訴えました。彼の人生観・人生計画には、命を脅かされるような事態は想定されていませんでした。しかしそれは神のご計画とは違いました。神は彼の未熟な返事をそのまま受け入れ、本題に入ります。
19:15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。
19:16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。
19:17 ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。
19:18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」
>>>神はエリヤに自分が行くべき場所に引き返すように命じます。そして彼に油注ぎの使命を与えます。それは預言者サムエルに与えられた使命と同じでした。王たち、そして後継者に神からの特別な聖霊の油注ぎを祈ると言う使命です。それは人生の最後の最後まで続けることができる、神からクリスチャンに与えられている大切な使命と言えます。この使命の今日的な意義を考える時、自分勝手に人生を早く終わらせたいと言う考えは、神の御心に真っ向から対立するものだと言えるでしょう。人生の様々な苦しみと試練を、主イエス様も体験されました。その上で、人生の最後の最後まで、つまり十字架の上でも主イエスは人々のために執り成し祈り続けられました。エリヤはこの使命のために改めて遣わされていくことになります。
そして最後に、神は彼の言葉にも実は向き合っていました。エリヤの言い分だと、彼だけが一人取り残された神の預言者になってしまったという言い方でしたが、神はイスラエルに7千人の忠実な神の僕を残すと約束されたのです。彼は自分一人だけがこのような使命を担わされていると思う必要はないと言うことです。神は今日も私たちに、教会という仲間を豊かに備えて下さっているのです。預言者の使命とは、人生の最後まで、信仰の仲間たちと共に聖霊による神の御業が、豊かにこの世に実現するように執り成し祈り続けることではないでしょうか。
分かち合いのポイント
・信仰者には霊的な充電期間のような時が必要です。うまくそれが出来た時、出来なかった時、それぞれの体験を分かち合いましょう。また、現代に生きる私たちにとって、弱っていた時のエリヤに与えられた神からの命のパンと命の水とは何でしょうか、話し合いましょう。
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