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主日礼拝宣教要旨

2016年6月5日(日) 礼拝宣教要旨 「施しはさりげなく」 マタイによる福音書6章1-4節

礼拝宣教要旨 西川口キリスト教会 斎藤信一郎

主題)「施しはさりげなく」マタイによる福音書6章1-4節

「そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(4節)

今月は、信仰生活のさらなる高みに進むために必要な4つの重要な信仰理解について御言葉より学びます。最初は施し(義捐金、救援募金等)についてです。

主イエスの時代にも貧しい人や身寄りのない人たちのための救済募金は行われていたようです。そして、大口の施しがなされる時などにラッパが吹き鳴らされていたと考えられます。主イエスはこのような現実のありさまを見て、あなたの施しは何を動機に行っているのかと問われます。人に良く思われたいために行っているのか、それとも本気で困っている人を助けたいためなのか。もちろん主イエスは動機が不純な場合には、施しはしない方がいいと言っているわけではありません。そうではなく、施しは神から授かっている大切な使命だということを自覚して行うようにと勧めているのです。

主イエスは「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と言われます。それは実際には不可能なのですが、それと同じく、私たちの施しの動機も人には隠せても神に隠しておくことはできないのです。ところが施しがいつの間にか、神からの使命ではなく、自己実現の機会として利用されている現実に対して主イエスは注意を促しています。神は私たちの全てを見ておられるお方です。聖書的な理解では、神は初めから私たちの全ての収入を祝福して下さっているのであり、他の人々の生活を助けるためと、教会に献金するために私たちの収入を増額させておられます。そのことを前提に、生活に困っている人を援助することは当然の使命なのだと主イエスは教えておられるのです。

施しが神に与えられている私たちの当然の使命だとするならば、むしろさりげなく行ってしかるべきではないかと主イエスは指摘されます。そしてこのような自覚で人生の使命に忠実に生きる時、施しがたとえ他人に知られなくても、神が必ず報いて下さると主イエスは確信を持って宣言されるのです。

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