6/5日 サムエル記上6章1-13節「ダビデを王に選んだ主の目」
総合テーマ 神の御手に委ねる
黙想のポイント(文末の分かち合いのポイントもご参照下さい)
・サムエルは神の指示に対して戸惑いと恐れをいだきます。サウル王という権力に彼が背くことによって被るかもしれない身の危険に怯えたのです。私たちの日常にも同じようなことはないでしょうか。クリスチャンとして日本社会で生きる時に抱く戸惑いや恐れです。これにどう向き合うべきか、今回の御言葉と教会での分かち合いを通して共に考えましょう。…また、バプテスト連盟出版の聖書教育誌を並行して参照しながら学ぶことを前提にこの紙面は書かれています。聖書教育にはここにはあえてあまり触れていない時代背景や他の優れた視点が豊富に含まれています。成人科だけではなく、少年少女科や、巻頭のサムエル記の解説なども参考になりますので是非、合わせてご参照下さい。
これまでの概略…
サムエルは神の預言者として立てられ、イスラエルの民の求めに応じてサウルを初代の王として油を注いで祝福しました。始めこそサウル王は、彼を王に選ばれた神に対して忠実でしたが、やがて神の命令を無視し、自分の判断で行動するようになって行きます。そこで神は彼に代わる人物に油を注ぐために、サムエルをベツレヘムのエッサイのもとへと遣わします…
◆ダビデ、油を注がれる
16:1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
16:2 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
16:3 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
>>>権力を手にしたサウルは手が付けられなくなっていたようです。サムエルは他の人を王として立てるべく出発します。サウルの許可なく王位継承の祝福の意味を込めて他人に油を注ぐようなことをすれば、サムエル自身は謀反の罪で殺されることを心配しました。しかし、主は淡々と彼にすべきことを命じます。そして、どのようにしてサウルに知られずにことを運ぶことができるのか、その知恵をサムエルに授けます。また、サムエルが油を注ぐことになるのはどうやらベツレヘムのエッサイの息子たちの中にいることが分かって来ます。
16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
16:5 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
>>>サムエルには、主のご計画のすべてが分かっていたわけではありませんでしたが、忠実に神の御心に従いました。時には、私たちもこの世において不利に思えることをクリスチャンとしてすることを神が求められることがあります。むしろ、本気で聖書の教えに従おうとすれば、妨げになることだらけかも知れません。そのような時には神がサムエルに指示されたように、神のご計画と備えとお守りを信じて、知恵を用いながら賢く振る舞うことが時には必要だと示されます。ただし、根底には神への従順が必要不可欠です。
16:6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
16:7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
16:8 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:9 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
16:10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
>>>神のご計画は私たちの常識的なものの見方や判断とは違っていました。サムエルはエッサイの長男の第一印象と容姿を見て、この人に違いないと思いましたが、間違っていました。神はサムエルに人間を見かけで判断してはならないことを諭されます。また、神は心の中まで人選の基準にされるとサムエルに告げます。
16:11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
>>>多少時間も長引いていたことでしょう。サムエルは神からの使命を中途半端にしたまま会食を始めるつもりはありませんでした。あれもこれも同時進行で行わなければならない多忙な現代に私たちは生きていますが、それでも神のご計画と自分への使命を見失わず、常にそれをやり遂げていくサムエルのような実行力を大切にしたいものです。
16:12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。
>>>油を注がれるとは何を意味するのかが、ここで明らかになります。特別に主の聖霊に満たされる特権にダビデが預かり、聖霊の導きとお守りが今後豊かに伴うことが示されています。ペンテコステ以来、私たちもこの祝福を受け取ることが可能となりました。神の目に適うダビデの信仰とはどのような信仰だったのか、今月の学びの中で示されて参りましょう。
・分かち合いのポイント(今回は聖書教育誌の青年成人科のものをそのまま載せています)
サムエルにとって、神の目にサウルが王位から失脚したことはつらい事実でした。しかしダビデの選び出しの体験を通して、彼は真に「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」ことを学んだと思われます。この聖句の意味を味わってみましょう。
あなたの教会では執事やリーダーをどのような方法で選んでいますか。執事やリーダーを選ぶ時の基準を何においているかみんなで話し合ってみましょう。また、自分の特技や興味や意欲とは関係のないところで召しを感じた時、何を思いどのように応答しましたか。