2016年5月29日(日) 礼拝宣教要旨 西川口キリスト教会 斎藤信一郎
主題)「敵を赦し、愛せるか」 マタイによる福音書5章43-48節
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(43節)
5章から始まる主イエスの山上の説教の中で、5章後半の6話の特徴とは、「あなたがたも聞いているとおり…」という当時の常識的な教えを、主イエスが聖書信仰に照らし合わせて、より神の御心に適ったものにしていくという共通点があります。そして、中でも今回取り上げる最後の6番目は実践が最も難しいものと言えるでしょう。
実は43節冒頭の言い伝えは前半が聖書からの引用、後半が聖書以外からの引用となっています。一見聖書的に思える教えも、部分的に聖書とは正反対の内容を含んでいるならば、それは神の御心とは言えません。世の中の教えには、このようなものが案外多いことにも注意したいと思います。
また45節には、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる慈悲深いお方だということが語られていますが、多くの場合、これを聞く私たちは善人の立場に立ってこの言葉を聞いてしまうのです。しかし、聖書はむしろ「私たち悪人にも善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる。」と読むべきことを教えています。このように謙遜に御言葉を読む時、神の慈悲深さが分かるのです。46節では当時一般のユダヤ人たちから嫌われ、見下されていた徴税人の話しが登場しますが、この福音書を書いたマタイもまた主イエスの愛によって十二弟子の一人に特別に招き入れられた過去を持った人物でした。
最後の48節には、天の父が完全であられるように、私たちも完全な者になるように招かれています。到底私たちにはできそうにない主イエスの教えですが、十字架の上で迫害する者たちのために実際に祈られた主イエスだからこそ、私たちを力づけ、導くことがお出来になるのです。私たちの力の源である主イエスに信頼し、御言葉に従って参りましょう。