5/22日 ヨハネの黙示録 22章6-17節「時が近づいているから」
総合テーマ 天のエルサレム、天のエデンの園
黙想のポイント
・今回は10節の御言葉を黙想し、分かち合いましょう。
予備知識…21章~22章の今回の箇所の前までの概略
これまで存在したようなこの地上とも、天(霊)の世界とも違う、新しい天と新しい地の登場が語られています。そこにはこの世で言う海もありません。中でも特別なのが新しい聖なる都であるエルサレムが新しい天から新しい地へと下って来ます。そして、新しい世界の特徴が語られ、神が人と共に住むところとなり、涙、死、悲しみや嘆きや苦労がない場所となることが語られます。その都(新しいエルサレム)にはもう一つ特徴がありました。それは神殿と太陽や月がないということです。その理由は、主と小羊とが都の神殿であり、都の明かりだからだと言います。そして玉座から命の水の川が都の大通りの中央を流れ、その両岸に諸国民を癒す命の木の存在が語られます。
◆キリストの再臨
22:6 そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。
22:7 見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」
>>>もはや世の終わりがいつ本格化するかは分からない時代となっていることが強調されています。「すぐにも起こるはずのこと」、「見よ、わたしはすぐに来る」。もし、今日がその日だとするとあなたは何をするべきだと思われるでしょうか。私の場合、心のどこかでまだ今日ではないのではないかと思う心が働き、緊急のこととして受け止められない自分が存在するように感じます。従って、聖書の言葉を聞いて、それをもっと現実のこととして受け止めることができるように祈り求める必要があることを示されます。神は行動を求めておられます。聞いたまま、疑問を持ったままでいることを望むのは悪魔だということを忘れないようにしたいと思います。
22:8 わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。
22:9 すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」
>>>19章でも思わず天使をおがもうとしたヨハネでしたが、再びヨハネは同じ過ちを犯し、注意されています。私たちには習慣化していて、すぐには直せないクリスチャンとしてふさわしくない生き方がだれにでもあることが示されます。悪気はなくても簡単に犯してしまう偶像礼拝にも注意を促されます。
22:10 また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。
>>>天使はこのヨハネの黙示録の言葉をもっと明るみに出すようにと語ります。私たちはこの御言葉に忠実に生きるためにはどうすべきだと示されるでしょうか。また、時が迫っていることをどのように感じておらえるでしょうか。
22:11 不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。
>>>エデンの園にあった善悪を知る木のことで神が求めておられる原則と同じです。神は私たちの自由意志で自ら神の教えに生き続けることを求めておられます。自分の罪を悔い改めるということも本心からのものでなければなりません。神や他の人が本人に代わることはできないのです。
22:12 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
>>>ことの緊急性が繰り返し、繰り返し語られます。それだけ、私たちの自覚が乏しいと言うことかも知れません。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
22:14 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
22:15 犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
>>>都の中に入れる者となることが何よりも大切だということが黙示録の重要なテーマでした。一方で、15節には私たちが気をつけて克服しなければならない生活習慣が最後にもう一度語られています。犬のような者とは他人にすぐに牙を向けて攻撃するような短気な性格の者、魔術を使う者の中には占いを好む者も含まれるでしょう。みだらなことをする者とは口語訳では姦淫する者とあり、人を殺す者と同様に主イエスが心の中で犯す罪にも取り上げられているものです。偶像礼拝については先に述べた通りであり、偽りを行う者だけでなく、ここでは好む時点ですでに罪だとされています。これらのことは決して私たちと関わりのないものではなく、むしろ関わりのあるものばかりであり、もっと真剣に聖霊の助けをいただきながら克服していく必要があるものだと気付かされます。この世にいる間にクリスチャンが取り組むように導かれている課題は実はこのようなところにもあるということでしょうか。この世でクリスチャンとして生き抜くことは決して楽なことではないというのが結論かも知れません。しかし、次の言葉に私たちは常に希望を置くことができるのです。
22:16 わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」
>>>これらのことをヨハネに示した総責任者は他でもありません。主イエスだということが最後に強調されています。ダビデのひこばえとは死から復活された主イエスを指し示し、輝く明けの明星とは新たな希望を指し示しています。どんなに私たちの力だけでは困難に思える課題が多く存在しているとしても、復活の主イエスが私たちと共に世の終わりまでいて下さるのです。アーメン。ハレルヤ!