ヨハネの黙示録 20章1-15節「千年が終わると」
総合テーマ 天のエルサレム、天のエデンの園
黙想のポイント
・最後の最後まで救いを諦めない神の計り知れない忍耐を黙想しましましょう。
予備知識…
19:20 しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
>>>前章の20節で、悪魔に仕えていた獣と偽預言者は両者ともに火の池、つまり地獄に投げ込まれたことが記されています。しかし、まだ悪魔が残っています。今回の20章で悪魔がどうなって行くかが分かります。
◆千年間の支配
20:1 わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。
20:2 この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、
20:3 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。
>>>黙示録は悪魔だけはすぐさま地獄に落とされるのではなく、「底なしの淵」と言われる場所に千年間閉じ込められる刑罰を受けることが語られています。悪魔と言えども、かつては神に仕える存在でした。私には神の憐みにより、悪魔に最後の悔い改めの機会が与えられているように思えます。
20:4 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
20:5 その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。
20:6 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
>>>この千年の期間、生き返ってキリストと共に世界を統治する人々が存在することが語られています。これを第一の復活と呼んでいます。この栄誉ある使命を与えられるのは、生前にキリストにどこまでも忠実に従い、迫害に耐え、殉教の死を遂げた者たちだということが分かります。しかし、これはすべてのクリスチャンたちを意味しているものではないと考えられます。これらの人々は言わば第一次選抜隊だと言えます。それはこの特別な千年期にキリストの手足となって千年期を生きる人々を正しい信仰と正しい生活に導くために特別な栄誉を与えられた神の僕たちなのです。この千年期は恐らくこれまで人類が経験したことがないような最も平和で、政府の管理が行き届いた世界になることでしょう。まさに私たちがこの地上で実現して欲しいと思い描く最高に平和で安全な社会を想像します。しかし、これはまだ天国とは違うのです。なぜ、このような場所が用意されるのかは次に明らかになって参ります。
◆サタンの敗北
20:7 この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、
20:8 地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。
>>>サタンは最後にもう一度だけ機会が与えられます。それは最後の最後までサタンにも悔い改めの機会を与えるものであるとも言えます。しかし、サタンも、そして人間たちの中にも最後まで悔い改めない人々はいるのです。残念ながらサタンの謀反に応えて反旗を翻す人々の数は「海の砂のように多い」のです。どんなに平和で治安が良く秩序ある世界になっても、またどんなに表向きは警察沙汰になるような凶悪犯罪が無くなったとしても、人々の心の中までは変えることはできないと言うことでしょうか。自分たちの生活を心から喜び、満足していない人々が無数に存在したのです。彼らは神によって統治されている平和な社会を感謝して生きていたわけではなかったことが示されています。(ゴグとマゴグについてはエゼキエル38章の預言をご参照下さい)
20:9 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。
>>>あっけないと言えば本当にあっけない彼らの最後が語られます。彼らは神が統治する世界を脅かし、一矢報いようとしたのでしょうが、攻撃を開始する間もなく全滅させられてしまうのです。これほどまでに神と悪魔との間には差があることも分かります。悪魔はまるで神と対等以上の存在のように自分を装いますが、これが聖書が指し示す真理です。
20:10 そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。
>>>千年に渡る忍耐強い神の導きに比べると本当にあっけないサタンの最後でした。すべては、たとえその中の一人であっても、悔い改めて本心から神に立ち返る人を救済したいとの神の犠牲的な愛によるものだったことがわかります。私たちを救うために極限まで忍耐して下さるのが聖書が証言するキリストであり、神なのです。
◆最後の裁き
20:11 わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。
>>>場面は地上から代わり、ここはあらゆる人々が公平に神の裁きを受けるための場所のようです。
20:12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。
>>>ここに登場する死者たちの中には以前の章で見て来た「大きな者も小さな者も」というクリスチャン側の人々がいることが表現されています。この箇所から、私はクリスチャンであっても生前の罪に対する一定の裁きが適正に行われると理解します。ただし、それは拷問や死刑というものではないことは言うまでもありません。私たちには、知らずに犯してしまっている多くの罪が存在します。また、十分に悔い改めているとは限らない罪もあることでしょう。本気で悔い改めた罪は別として、私たちが本来この地上にいる間に向き合い、悔い改めるべきだったすべての罪がこの時に明らかにされるのではないでしょうか。その時、私たちはむしろ、それらの罪さえもキリストによって贖われていることが再度確認でき、赦された罪の大きさを自覚し、改めて罪をあがなわれたことを感謝し、賛美に包まれることでしょう。
20:13 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
20:14 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
>>>次に最後まで悔い改めなかった者たちが裁かれます。それぞれの罪状が明らかにされるようです。どんなに目を背けたくなる罪がことごとく檀上に上ることでしょうか。自分のすべての罪が明らかにされること自体、キリストの罪のあがない無しには耐えがたいことでしょう。その上で火の池、つまり地獄に最後は投げ込まれます。
*この章を通して私たちはもう一度、神がどのようなお方なのかということを理解できたでしょうか。次の二つの聖句を引用して閉じます。
ヨハネ福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
Ⅱペテロ3章9節「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」