2016年10月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 10/9日 エゼキエル書8章1-13節「激怒する神さまの思い」
総合テーマ 神の臨在を悟る
予備知識…エゼキエル書
・エゼキエル書は大預言書と言われる旧約聖書の5つの書の一つに数えられています。イザヤ、エレミヤ、哀歌、
エゼキエル書、ダニエル書です(哀歌は預言者エレミヤが書いたと考えられています)。イザヤは北王国イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされる時代に活躍し、後の三人の預言者は南王国ユダがバビロン帝国によって滅ぼされる時代に活躍します。エレミヤは少し年上でエゼキエルがバビロン捕囚に連れて行かれる時、すでに30年ほどエルサレムで預言活動をしていたと考えられます。一方、エゼキエルとダニエルは同じくらいの年齢で、二人ともバビロンに連れて行かれます。ダニエルは宮廷に仕える預言者となりますが、エゼキエルは再びイスラエルに帰還することができる希望と、その前に罪を悔い改めることが必要不可欠だということを捕囚の民に伝える預言者として神に用いられます。
・なお、エゼキエル書の大まかなあらすじは、3章までがエゼキエルの召命、4~24章までがイスラエルに対する預言、25~32章までが諸国民に対する預言、33~48章までがイスラエルとその最後の日々に関しての預言になっています(イラスト早わかり聖書ガイドブック参照)。
黙想のポイント
・神はエゼキエルにエルサレムの現状を幻の内に見せます。それは甚だしい偶像礼拝に満ちたものでした。なぜ、神は彼らをバビロン捕囚の憂き目に合わせることを決断されたのか、その理由が神から訴えられます。神の張り裂けるような心の内を黙想しましょう。
◆エルサレムの堕落
8:1 第六年の六月五日のことである。わたしは自分の家に座っており、ユダの長老たちがわたしの前に座っていた。そのとき、主なる神の御手がわたしの上に下った。
8:2 わたしが見ていると、人の有様のような姿があるではないか。その腰のように見えるところから下は火であり、腰から上は琥珀金の輝きのように光輝に満ちた有様をしていた。
8:3 彼が手の形をしたものを差し伸べて、わたしの髪の毛の房をつかむと、霊はわたしを地と天の間に引き上げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び、北に面する内側の門の入り口に連れて行った。そこには、激怒を起こさせる像が収められていた。
>>>エゼキエルはバビロンにいながらにして、エルサレムに残されている民の生活ぶりを幻の中で見せられます。それは悲しむべき偶像礼拝に満ちたものでした。
8:4 そこには、かつてわたしが平野で見た有様と同じような、イスラエルの神の栄光があった。
>>>それでも、その場所には神の栄光が現存していました。問題は民が勝手に神に見捨てられたと思い込み、自分勝手な偶像信仰にますます落ち込んでいたことでした。
8:5 彼がわたしに、「人の子よ、目を上げて北の方を見なさい」と言ったので、北の方に目を上げると、門の北側に祭壇があり、入り口にはまさにその激怒を招く像があるではないか。
8:6 彼はわたしに言った。「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか。しかし、あなたは更に甚だしく忌まわしいことを見る。」
8:7 彼はわたしを庭の入り口に連れて行った。見ると、壁に一つの穴があるではないか。
8:8 彼がわたしに、「人の子よ、壁に穴をうがちなさい」と言ったので、壁に穴をうがつと、そこに一つの入り口があるではないか。
8:9 彼は、「入って、彼らがここで行っている邪悪で忌まわしいことを見なさい」と言った。
>>>イスラエルの民が神から離れて偶像礼拝にふけっている有様を見せられたエゼキエルに、神は聖所の中が同じように偶像礼拝に満ちていて、神を遠ざけていることを告げます。
8:10 入って見ていると、周りの壁一面に、あらゆる地を這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれているではないか。
8:11 その前に、イスラエルの長老七十人が、シャファンの子ヤアザンヤを中心にして立っていた。彼らは、それぞれ香炉を手にしており、かぐわしい煙が立ち昇っていた。
8:12 彼はわたしに言った。「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが、闇の中でおのおの、自分の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられたと言っている。」
8:13 彼はまた、わたしに言った。「あなたは、彼らが行っている更に甚だしく忌まわしいことを見る」と。
>>>イスラエルの民を導くべき指導者たちもまた、人目に着かない所で各々偶像礼拝の罪を犯していることが語られます。イスラエルに残された民と捕囚に連れ去られた民も含めて、イスラエルの民全体に悔い改めが必要不可欠だということが示されます。それらは決して見て見ぬ振りができないものだということが神の口から語られます。
ここからは今回の聖書教育誌の範囲外…
8:14 彼はわたしを、主の神殿の北に面した門の入り口に連れて行った。そこには、女たちがタンムズ神のために泣きながら座っているではないか。
8:15 そこで彼はわたしに言った。「人の子よ、見たか。あなたは、これより更に甚だしく忌まわしいことを見る」と。
8:16 彼はわたしを主の神殿の中庭に連れて行った。すると、主の聖所の入り口で、廊と祭壇の間に、二十五人ほどの人がいて、主の聖所を背にし、顔を東に向けていた。彼らは東に向かって太陽を拝んでいるではないか。
8:17 彼はわたしに言った。「人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。また、わたしの鼻に木の枝を突きつけて、わたしを更に怒らせようとしている。
8:18 わたしも憤って行い、慈しみの目を注ぐことも、憐れみをかけることもしない。彼らがわたしの耳に向かって大声をあげても、わたしは彼らに聞きはしない。」
分かち合い
・エゼキエル書は、神がイスラエルの民がもう一度、偶像礼拝を悔い改めるべきことを望んでいること、その上でもう一度彼らを真実の礼拝へと導き戻そうと、忍耐強く導き続けておられることを預言しています。新約聖書でバプテスマのヨハネと主イエス・キリストが「悔い改めて、福音を信ぜよ」と宣教されたように、エゼキエルもまた悔い改めるべきことと、神が彼らを真実の礼拝へと導き続けて下さっているという福音を語ります。
・繰り返される偶像礼拝の罪について、神はどのように見ておられるかが語られています。神が今日の私たちの世界の日常の現実を、どのように見ておられるかを考えつつ、分かち合いましょう。