2016年10月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 10/2日 エゼキエル書1章1-28節「ケバル川のほとりで見た」
総合テーマ 神の臨在を悟る
予備知識…エゼキエル書
・活躍する預言者たち…エゼキエルが置かれていた時代は南王国ユダがバビロン捕囚に遭う前後の時代でした。
時代や生活環境が激変し、先が見通せず、希望が見出せず、神に見放されているようにしか思えないイスラエルの民の状況がありました。しかし、そのような時代に神は集中的に預言者を立てておられます。エゼキエルが活躍した同時代には他にもエレミヤ、ハバクク、オバデヤ、ゼパニヤ、ダニエルなどの聖書に登場する預言者たちがいます。バビロン捕囚の時期に神がいかにイスラエルを顧みておられたかが伺えます。絶望のただ中でエゼキエルが見出す希望と神のメッセージに耳を傾けて参りましょう。
黙想のポイント
・神の都と神殿から遠ざけられ、異教の遠い国に連れ去られたイスラエルの民でした。もはや、まともな礼拝もできず、神に見捨てられたとしか思えないような状況のただ中で、神がエゼキエルに見せた幻がどれほど大きな希望となったことでしょうか。今回は、聖書教育誌の範囲を越えて1章全体を通して御言葉に聞いて参ります。
◆エゼキエルの召命
1:1 第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。
>>>「第三十年」というのが何を基準にしたものなのか、諸説あります。南王国イスラエルで宗教改革を実行に移したヨシヤ王の時代を基準にしたり、エゼキエルの年齢を基準にするという考え方もあります。
1:2 それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。
1:3 カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。
>>>ケバル川というのも諸説あり、イスラエルの北方にあるどこかの国だということに留めて置きます。
1:4 わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。
1:5 またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。
1:6 それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
1:7 脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。
1:8 また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。
1:9 翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。
1:10 その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた。
1:11 顔はそのようになっていた。翼は上に向かって広げられ、二つは互いに触れ合い、ほかの二つは体を覆っていた。
1:12 それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせる所へ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった。
1:13 生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。
1:14 そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。
>>>ここに登場する四つの顔を持つ生き物が何を象徴しているのか、諸説ありますがとても難解です。旧約聖書にはしばしばこれらの動物を一定の国々を統治する帝国として用いている箇所もあります(ダニエル書参照)。また人間は生物界の頂点に立つ生き物、獅子は野獣の頂点、牛は家畜の頂点、鷲は鳥の頂点に君臨する生き物と考えることもできます。
1:15 わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。
1:16 それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。
1:17 それらが移動するとき、四つの方向のどちらにも進むことができ、移動するとき向きを変えることはなかった。
1:18 車輪の外枠は高く、恐ろしかった。車輪の外枠には、四つとも周囲一面に目がつけられていた。
1:19 生き物が移動するとき、傍らの車輪も進み、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も引き上げられた。
1:20 それらは霊が行かせる方向に、霊が行かせる所にはどこにでも進み、車輪もまた、共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。
1:21 生き物が進むときには車輪も進み、生き物が止まるときには車輪も止まった。また、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。
1:22 生き物の頭上には、恐れを呼び起こす、水晶のように輝く大空のようなものがあった。それは生き物の頭上に高く広がっていた。
1:23 大空の下では、生き物の一対の翼がまっすぐに伸びて互いに触れ合い、他の一対の翼が体を覆っていた。すなわち、それぞれの一対の翼が彼らの体を覆っていた。
1:24 それらが移動するとき、翼の羽ばたく音をわたしは聞いたが、それは大水の音のように、全能なる神の御声のように聞こえ、また、陣営のどよめきのようにも聞こえた。それらが止まっているとき、翼は垂れていた。
1:25 生き物の頭上にある大空から音が響いた。それらが止まっているとき、翼は垂れていた。
>>>エゼキエルに示された生き物たちの下には、車輪のようなものが一緒にどこにでも移動したことが語られます。そして、車輪の中に生き物の霊が宿っていたという不思議な表現もあります。何故、本体とかい離しているのでしょうか。謎の多い霊的な存在が描かれています。
1:26 生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。
1:27 腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。
1:28 周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。
>>>神から見捨てられ、絶望に囲まれて生活していたイスラエルの民に神が見せられたのは、いかなる地上の場所の上にも臨在される神の御座でした。エルサレムにこそ神がおられ、今やエルサレムから遠く離れた場所にいるエゼキエルをはじめとするイスラエルの民は、彼らは、今やまともに神を礼拝することもできないところに来てしまったと、絶望していたのではないかと考えられます。しかし、そんな彼らに神は新しい信仰理解を示されたのです。どこにいても、どんな国の支配下にあっても、その上にあってすべてをご支配の中に置かれている神の主権が、常にイスラエルの民の上にあることが示されます。イスラエルの民は、決して神のご支配の中から遠く引き離されてはいないことが示されたのではないでしょうか。
分かち合い
・絶望のただ中にあっても、不条理で見通しの効かない厳しい現実のただ中でも、頭上に存在し続ける神の御座は、私たちに希望があることを指し示しています。互いに神の圧倒的な臨在に励まされた経験を分かち合いましょう。