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主日礼拝宣教要旨

2016年1月10日(日) 「主イエスのバプテスマ」 マタイによる福音書3 章13-17節(斎藤信一郎牧師)

マタイによる福音書3章13節~17節

「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。」(13節)

バプテスマを受ける理由の一つに罪を告白し、神に赦していただくためだという方が多いのではないかと思われます。しかし、そうだとすると人類で唯一罪を犯したことがない主イエスは何故バプテスマを受けられたのでしょうか。マタイ福音書3章6節では人々が「罪を告白し…バプテスマを受けた」、11節にはヨハネが「悔い改めに導くために水でバプテスマを授けている」とあります。マルコ福音書1章4節には「罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」とあり、ルカ福音書も同じ表現になっています。この言葉を注意深く解釈すると、バプテスマの時に罪を告白することは大切ですが、要は「罪を悔い改める」ことではなく、「悔い改め」が肝心だということが分かります。

「悔い改め」という言葉はギリシャ語で「人生の方向転換をする」と言う意味と、「本来あるべき立ち位置に立ち返る」という意味があります。主イエスが受けられた悔い改めのバプテスマとは、これまでの家族中心の人生から神から与えられている本来の十字架へとつながる救い主としての人生に方向転換するという意味と、そのために本来あるべき立ち位置に立ち返って伝道を開始するという意味があったと考えられます。しかも、バプテスマの儀式にはさらに大切な意義があります。主イエスは一人でバプテスマを受けることはできなかったのです。何故ならば、バプテスマにはこれから神に献身して生きる人のために執り成し祈ってくれる執行者と会衆を必要としていたからです。

主イエスはこれからの公の生涯をただ自分の力だけで勝負することは不可能だということを理解していました。仲間の執り成しの祈りとそれによって豊かに与えられる聖霊の導きなしには神の御心に適った使命を最後まで成し遂げることはできないことを理解していたのです。そのためにどうしても必要不可欠なこととしてヨハネ共同体に祈られ、聖霊の確かな現臨の中で福音宣教を開始する必要があったということです。今日、私たちには祈り合える教会という共同体があることを感謝します。

 

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