出エジプト記32章1~14節「なぜ、待てない」
総合テーマ 私たちの本気を求められる神
黙想のポイント
その1 神の数々の絶大な恵みを体験してなお、いとも簡単に神に逆らって偶像礼拝に生きてしまう人間の罪深さを黙想しましょう。
その2 このような現実に勝利するためにキリスト者に与えられている執り成しの祈りの大切さを共に学びましょう。
◆重要参照箇所…
24:12 主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、
24:13 モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、
24:14 長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」
>>>イスラエルの民はあらかじめモーセが戻ってくるまで待つように言われていました。不在の間の対処法についても指示が出されていました。アロンとフルに相談することになっていました。
24:15 モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。
24:16 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。
>>>モーセもまたすぐに神の声を聞けたわけではありませんでした。六日間に渡り忍耐しながら不安な期間を過ごさなければならなかったことがわかります。
24:17 主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。
24:18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。
>>>モーセの滞在は主イエスの荒野での体験のように40日に渡ったことがわかります。このことが前提となって今回の場面になります…。
◆金の子牛
32:1 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、
>>>聖書教育でも明らかにしているように、民は神にではなく、モーセに依存していることが彼らの言葉から伺えます。そして、彼らの勝手な判断で最も彼らがしてはならないことを神の面前で行おうとし出します。どうして!と私たちは思ってしまうのではないでしょうか。これまで数々の奇跡を体験し、神の絶大なお守りと憐みを受け、さらには毎日神からの食物も与えられていながら、それでもイスラエルの民は神に背こうとするのは不自然にさえ思えます。しかし、これこそが私たち人間の現実であり、弱さだということに心あたりはないでしょうか。皮肉にもちょうどこの時に神はモーセに聖書の神以外の神を拝み、それに従ってはならないという十戒の書かれた石の板を授けていたのでした。
32:2 アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」
32:3 民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。
>>>悲しむべきことに、イスラエルの民を戒め、励ますべきアロンまでもが彼らの要求をたしなめもせずに受け入れてしまっています。神に礼拝するための幕屋、祭壇や祭具を造るためにやがて用いられるべき貴重な金を彼らは誤って偶像の神を造るために用いてしまいました。
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。
32:6 彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。
>>>神がこれまで彼らに教え込もうとしていた7日毎の静かな礼拝の精神はどこへ行ったのでしょうか。彼らは神が最も嫌われる仕方で偶像礼拝にふけってしまったのです。それはおよそ神を礼拝するのにふさわしいものではありませんでした。彼らがしたことは単に酒におぼれて神を悲しませる口に出すのもはばかられる振る舞いを平気でしただけでした。神がそれを見て悲しむことについて、彼らは何も感じないのでしょうか。あなたはどう思われるでしょうか。人間の罪の恐ろしさがここに描かれています。麻薬のように人の感覚を麻痺させる罪の恐ろしさが!
32:7 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、
32:8 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」
32:9 主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。
32:10 今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」
>>>神の相談役となったモーセ、神の無念さをモーセは受け止めます。そして、逆に冷静にされ、神に民の罪に対して執り成しの祈りを結果的に捧げました。
32:11 モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。
32:12 どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。
32:13 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」
32:14 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。
>>>人類に対するこの祈りこそ主イエス・キリストが執り成して下さった祈りでもあります。ただし、主イエス・キリストはご自身を捧げて、人類の罪の罰を十字架ならびに陰府に下って受けて下さいました。今日、私たちもこの執り成しの祈りに続くように聖霊によって招かれています。確かに私たちは天の御国に入る時まで不完全で、罪を犯すことから逃れられないかも知れません。しかし、不完全で罪の誘惑から完全には抜け出せていないままの私たちに対して、主イエスは「勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と宣言して下さっています。そして、私に従いなさいと招いて下さっているのです。今回の箇所から特に互いに執り成し祈り合うことの大切さを学び、共に実践して参りましょう。ますます罪の誘惑に打ち勝ち、ますます主に用いられる器になっていくために。