出エジプト記35章4~29節(参照40:34~38)「進んで心から」
総合テーマ 私たちの本気を求められる神
◆幕屋建設の準備
35:4モーセはイスラエルの人々の共同体全体に告げた。「これは主が命じられた言葉である。
>>幕屋の建設はイスラエルの民全体にかかわる大きな計画でありました。実に多くの人々がこの場に集まり、モーセの言葉に耳を傾けた様子がわかります。
35:5あなたたちの持ち物のうちから、主のもとに献納物を持って来なさい。すべて進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい。すなわち、金、銀、青銅、
35:6青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、
35:7赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
35:8ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、
35:9エフォドや胸当てにはめ込む縞めのうの石やその他の宝石類である。
>>「あなたたちの持ち物のうちから・・」民はこの長い旅路の間にいろいろな技術を主の導きによって会得していったものと考えられます。それにしても、宝石類、いろいろな色の糸、木材、動物の毛皮など、決してたやすく手に入る物ではなかったでしょう。それぞれの家の家宝として、大切に保管されていたものだったに違いありません。さらに、「すべて進んで心からささげようとする者は・・」というように、主は民に、それらの物を「進んで心からささげること」をお望みになります。
35:10また、あなたたちのうちの、心に知恵のある者をすべて集めて、主が命じられた物をことごとく作らせなさい。
35:11すなわち、幕屋、天幕、覆い、留め金、壁板、横木、柱、台座、
35:12掟の箱とそれを担ぐ棒、贖いの座、至聖所の垂れ幕、
35:13机とそれをかつぐ棒、すべての祭具、供えのパン、
35:14燭台とその祭具、ともし火皿、灯油、
35:15香をたく祭壇とそれを担ぐ棒、聖別の油、香草の香、幕屋の入り口に掛ける幕、
35:16焼き尽くす献げ物の祭壇とそれに付く青銅の格子、それを担ぐ棒、およびそのすべての祭具、旋盤と台、
35:17庭の幔幕とその柱と台座、庭の入り口の幕、
35:18幕屋の杭と庭の杭、およびその綱、
35:19聖所で仕えるための衣服、祭司アロンのための祭服、その子らが祭司として仕えるための衣服がそれである。」
>>この言葉を聞いたのち、「イスラエルの人々の共同体全体はモーセの前を去った」(35:20)とあります。主なる神は、民のひとりひとりに時間を与えます。イスラエルの民は決してその場の雰囲気に流されたり、感情の高ぶりに左右されることなく、一度各々の家に帰り、冷静に心に問いかけ、熟慮し、準備する時間が与えられます。やがて・・
35:21心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。
35:22進んで心からする者は皆、男も女も次々と襟留め、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えて来て、みな金の献納物として主にささげた。
35:23青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、赤く染めた雄羊の毛皮、およびじゅごんの皮を持っているものも皆、それを携えて来た。また、アカシア材を持っている者は皆、奉仕の仕事のためにそれを携えて来た。<35:25~28略>
35:29モーセを通じて主が行うようお命じになったすべての仕事のために、進んで心からするイスラエルの人々は男も女も皆、随意の献げ物を主に携えて来た。
>>「心動かされ、進んで心からする者は皆・・」このような進んで心から主に捧げる民の姿が、35:25~28まで続きます。かつてエジプトで奴隷として生活していた民には、礼拝する神もなく、ただひたすら働いて、その日その日を強いられた労働、望まぬ労苦のうちに過ごすことだけしかありませんでした。そこにはもはや希望もなく、いわば生きながら死んだ状態にいたということもできるでしょう。しかし今やその民が、主に導かれエジプトから出て、長い旅路のなかで、このように主に進んで仕える民となって行きます。そこには男女の別もありません。幕屋を建設することは、民にとって喜びと希望をあたえました。幕屋は主の臨在するところであり、民が礼拝する場所です。それは、主がいつも民とともにあり、民と交わってくださることを意味します。また、苦しい時も楽しい時も旅路にいつも同行してくださいます。幕屋建設にむけて「進んで心から」捧げること・・それはまさに、「主と共に生きる喜び」を民が見出したしるしでもあるでしょう。
主のご用のために、生き生きと奉仕し、献げる・・そのような人々の姿に、私たちもまた、主に仕えて生きることの喜びを改めて思わされます。また、主なる神は、私たちひとりひとりに「喜びの出来事である献げもの」をこそ、喜んで受けてくださいます。
参照箇所として、出エジプト記40章34節から38節まで読んでみましょう。
40:34雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。
40:35モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
40:36雲が幕屋を離れて昇ると、イルラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。
40:37雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。
40:38旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家すべての人に見えたからでる。
>>臨在の幕屋の完成によって、誰より喜ばれたのは主なる神であったでしょう。民とともにある主は、もはやモーセとの特別な(相対で顔をあわせるような)関係をもちません。幕屋の上の雲が「すべての人に見えた」(40:38)とあるように、「モーセの目だけ」という関係から、民全体に広げられたことを意味します。
今回で出エジプト記の学びは最後になります。申命記33章29節でモーセは死を目前にしてこのような祝福のことばを述べます。
33:29 イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか。主はあなたを助ける盾 剣が襲うときのあなたの力。敵はあなたに屈し あなたは彼らの背をふみつける。
>>モーセは知っていたのです。主の愛はモーセ自身のみならず、主の民となるイスラエルの民全体にこそ向けられていたのを。現代の私たちに対しても、主なる神を受け入れ、神の子イエスを救い主と信じ、「心から進んで献げる」ならば、神様は同じように限りないご愛をしめしてくださるということを、旧約、新約聖書を通じて、いただくことができるのではないでしょうか。続いて、申命記34章10節から12節をご覧ください。
申命記34:10イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選びだされたのは、
34:11彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、
34:12また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。
>>主のご愛が私たちにも届いています。そのことを覚え、感謝したいと思います。