出エジプト記33章7~17節「民と共に行って下さい」
総合テーマ 私たちの本気を求められる神
黙想のポイント
その1 人間の罪に堕ちることの早きことを黙想しましょう。神の絶大な恵みもむなしく感じます。
その2 執り成しの祈りの必要を共に学びましょう。
◆<参考>今回は直前の箇所も重要だと考えます。ご参照下さい。
民の嘆き
33:1 主はモーセに仰せになった。「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。
33:2 わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。
>>>神はイスラエルの民にカナンの原住民たちのところに攻め入って、力づくで彼らの土地を自分たちのものにしなさいなどと一言も言っていません。そのことは当初、神に考えがあり、神の使いを先立って遣わして解決されるはずでした。
33:3 あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」
>>>その一方で神はもはやこれまで同様には民と一緒に上らないことを告げます。イスラエルのかたくなさは筋金入りで、神の奇跡、そして雲の柱を持ってしても、彼らを真に生ける神に回心させ、本気で神の民として信仰と生き方を変えようとしていないことに対してモーセに訴えたのでした。
33:4 民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった。
33:5 主がモーセに、「イスラエルの人々に告げなさい。『あなたたちはかたくなな民である。わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ぼしてしまうかもしれない。直ちに、身に着けている飾りを取り去りなさい。そうすれば、わたしはあなたをどのようにするか考えよう』」と言われたので、
33:6 イスラエルの人々は、ホレブ山をたって後、飾りをはずした。
◆臨在の幕屋
33:7 モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。
33:8 モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。
33:9 モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。
33:10 雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。
>>>イスラエルの民が最大限神とモーセに敬意を払っていることがわかります。なぜ、臨在の幕屋が宿営の外で宿営から遠く離れた場所に設置しなければならなかったのか。それには民が神を本気で信じ、従う決意が弱いことも原因の一端だと33章の冒頭でわかります。
33:11 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。
>>>なぜ、ヨシュアは幕屋から離れなかったのか?その理由は示されていません。しかし、神への忠誠心が良く表れているように思います。そして、ヨシュアがモーセの後継者となっていくことが示されているのかも知れません。
◆民と共に行かれる主
33:12 モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。
33:13 お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」
>>>神の御心はモーセにとってまだまだ不明確なものでした。モーセは率直にわからないことを突っ込んで訪ね、理解しようとしています。神はこのような態度を望んでおられ、わざとそうされているのかも知れません。私たちの場合にも当てはめることができる模範です。神の御心が明確になるまで諦めずに神に祈り、問い続けましょう。
モーセの祈りの言葉には神がもはやイスラエルの民に愛想が尽きたのではないかと言う不安が読み取れます。私たちの人生にも同じような状況に陥ることはないでしょうか。自分たちの罪のために神が遠くに感じられ、心もとない思いになることが…。しかし、モーセは諦めませんでした。また、神への悔い改めと真摯な態度で懇願することで神は再び自分たちの方に振り向いで下さることを信じていました。
33:14 主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われると、
33:15 モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。
>>>神が同行すると言ってもなお、不安を隠さないモーセでした。自分たちの犯した罪を心から反省しているようにも受け取れます。
33:16 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」
33:17 主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」
>>>モーセの執拗なまでの念の押し方に神は怒ることなく、丁寧に応答しています。神にこのように真剣に向き合うような祈りを私たちも見習いたいと思います。キリストの神はいつでも真剣に私たちに向き合って下さる神なのですから。私たちも、常に神に祈る時、聖書を読む時、礼拝にいく時、神に真剣に向き合いたいと思います。また生活のすべての領域で共におられる主なる神を思い、罪の誘惑を退け、神に喜ばれる生き方、言動を心がけていきましょう。