出エジプト記16章16~36節「それぞれ必要な分」
総合テーマ 逆境の中でも神の導きに信頼する信仰
黙想のポイント
その1 神が与えて下さる日々のマナについての指示は、今日の私たちにとっての日々の神からの御言葉に対する指示だと考えられます。クリスチャン生活の基礎となる日々のデボーションの仕方について互いに分かち合いましょう。
その2 今回の箇所では主の日への備え方についても教えられています。日曜日の前日からの各自の準備の仕方と神が今回の箇所で支持されている備え方とはどの程度一致しているでしょうか。
その3 民の中には主の日にもマナを求めて外出したように、主の日にしてはならないことをしてしまうことがあるとすればそれはどのようなことでしょうか。共に考えましょう。
◆【新共同訳】
16:16 主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
16:17 イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。
16:18 しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。
>>>イスラエルの民に日ごとに与えられたマナと呼ばれるカルメ焼きのようなパンは、一人当たり一オメル集めるように指示されていました。この単純な神からの指示の背後には、この単純な教えに日々忠実に従って(4節)生きる生活習慣と信仰を身につけることが目的としてありました。
16:19 モーセは彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、
16:20 彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。
16:21 そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。
>>>残念ながらこの単純な神からの指示を何人もの民が無視して翌日まで残そうとしました。しかし、それら残したものは虫が付き、腐ってしまい、結局翌日まで保存しておくことはできませんでした。また、外にあったマナも日中の内に溶けてなくなりました。20節には民が「モーセに聞き従わず」とあります。モーセは神の伝言を伝えたのですが、彼らが神の言として真剣に受け取っていなかったことが問題の一つだと示されます。
16:22 六日目になると、彼らは二倍の量、一人当たり二オメルのパンを集めた。共同体の代表者は皆でモーセのもとに来て、そのことを報告した。
16:23 モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」
16:24 彼らはモーセの命じたとおり、朝まで残しておいたが、臭くならず、虫も付かなかった。
>>>5日目までは同じようにしてマナを集めたイスラエルの民でしたが、6日目すなわち金曜日の朝は通常の2倍である2オメル集めるように指示が出され、民がその通りにすると2オメル集めることが出来ました。しかもそれらは焼いたり、煮たりすることもできたとあります。そして、何よりも平日と違うのは次の朝まで残しておいても腐らず、虫も付かなかったということです。神の奇跡の御手が常にイスラエルの上に置かれていることをイスラエルの民は毎日実感できたと共に、毎週6日目には特別にそのように感じたことでしょう。イスラエルの民はこれから40年間もこのような体験を毎日欠かさず体験していくことになるのです。神様の指示に従って、日々の糧を定められた量集めて生活する習慣がこのようにしてイスラエルの民に神の忍耐と憐みによって身についていくことになります。
16:25 モーセは言った。「今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう。
16:26 あなたたちは六日間集めた。七日目は安息日だから野には何もないであろう。」
16:27 七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。
16:28 主はモーセに言われた。「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。
16:29 よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。」
16:30 民はこうして、七日目に休んだ。
>>>残念ながらまたもや民の中には指示に従わず、前日に7日目の分も集めたにも関わらず、次の日に外に出てマナを集めようとした者たちがいました。しかし、マナはありませんでした。なぜ、民の中にはこれほどまでの軌跡を見せつけられながら、相変わらずこれが神からの指示だということを理解し、神の指示に忠実に従って生きようとしない人々が存在するのでしょうか?あなたはどう考えますか?この箇所を現代の私たちに当てはめた時、どうでしょうか?神の指示と教えに従って生涯生きていくことを決断した者たちが日々どれだけ忠実に神の指示と教えに従い通して生きているでしょうか?私たちはイスラエルの民ほどには神の奇跡的な体験を経験しているわけではないことが言い訳になるでしょうか?ここに登場するマナとは神からいただく日々の霊の糧である神の言葉だとすると、私たちは日ごとにいただくべき神のみことばを日々欠かさずにいただいているでしょうか。また、主日礼拝の前の日には主日礼拝の日を礼拝に集中できるように前日にすべての準備を済ませて置くことが示唆されていますが、そのようにして十分に備えをして主の日に臨めているでしょうか?イスラエルの民は40年かけてこのことを身に着けていく必要がありました。私たちはどうなのでしょうか。
16:31 イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。
16:32 モーセは言った。「主が命じられたことは次のことである。『その中から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである。』」
16:33 モーセがアロンに、「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」と言うと、
16:34 アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。
>>>このマナは蜜の入ったウェファースのような味がしたと言います。小さいこどもたちなら特に喜んで食べたことでしょう。神の行き届いた配慮が伺えます。通常はすぐに臭くなり、虫もすぐに着くような食べ物でしたが、特別に証拠として保存するために壺に入れた正味1オメルのマナだけはずっと保存できたというのです(40年間も!)。私たちの常識では理解できませんが、神の指示通りに実行することは私たちの常識に必ずしも合わないことを弁えて置く必要があるということでしょうか。
16:35 イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。
16:36 一オメルは十分の一エファ(=約2.3ℓ)である。
>>>聖書の神の教えに従って生きるということは、ある意味ではこの世の常識と価値基準とは違う基準で生きるということを指し示している出来事だと考えさせられます。日本のようにクリスチャン人口が1%に満たない国においては、日曜日ごとに礼拝することも、前日までに主の日のすべての準備と食事を整えて主の日を迎えるということも極めて難しいものだと言わざるを得ません。しかし、忘れないようにしたいと思います。このような生き方を神は毎日イスラエルの民と関わり続けながら40年間、徹底的に民に神の望まれる生き方を身に付けさせられたということを。そしてこの背後には神の想像を超えた40年間の忍耐があったことを覚えたいと思います。常に約束を守り、どんなに神に背き続けるイスラエルの民であっても、神はご自分の側のするべきことを止められることはありませんでした。この神に感謝をお返しするためには、少しでも神の御心に忠実に生きる以外にないのではないでしょうか。それならば、もう一度信仰生活の基本から見直して行きたいと思います。日々神の御言葉の前に静まり、デボーション=聖書通読する時を大切にしましょう。また主の日の礼拝に全身全霊を込めて礼拝を捧げることができるように前日から万全の準備を整えていくことを大切にしましょう。
*主なる神様は今日もそのために神の側でできることを私たちのために毎日し続けて下さっているのですから!!