出エジプト記20章1~17節「10の言葉を下さった神」
総合テーマ 逆境の中でも神の導きに信頼する信仰
黙想のポイント
その1 前半部分は神の自己紹介の部分です。神のご人格、考え方を共に学びましょう。
その2 神が私たちに真剣に願っておられる生き方を、私たちが真剣に生きることができるように祈りましょう。
◆十戒
20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。
>>>くどいと思われるほど、以下に語られるみことばは誰の言葉なのかが明確にされています。人間の言葉ではなく、創造主である神が語る最重要の言葉だということです。今一度、これからいただく言葉が他ならない神の言葉であり、神の考えであり、神が願っておられる内容だということを自覚しながら共に神の御言葉を自分への神の意志として聞きたいと思います。
20:2 「①わたしは主、②あなたの神、③あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
>>>①わたしは主…この表現は他に追随を許さない最高存在を現す聖書特有の神の固有名詞です。聖書の神はご自身を明確に定義される神です。その神の名前はヘブライ語では4つの文字からできています。聖4文字と言われ、英語表記では「YHWH」と書くことが分かっていますが、紀元前の時代からその読み方は正確には分からなくなっています。予想としては「ヤーウエ」と読むのが一番有力視されています。私の信一郎(しんいちろう)という名前は中国語では(シンイーラン)と違った読みになってしまうように、YHWHだけでは読み方は分からないのです。ただし、その意味は漢字からほぼわかります。「YHWH」とは「あらゆる存在の中で最高の存在」(「存在する」の最高形で書かれている言葉)だということを指し示している言葉です。そこで神の名前の意味が分かっているのですから、この際読み方よりも意味を大切にしていければいいのではないかと思います。神の名前にはこのような意味があることを大切にしていきましょう。
②神が次に強調するのは、神がほかでもありません、「あなたの」神だということを主張しています。「わたしはあなたの神なのですよ」と呼びかけておられることをもう一度真剣に受け止めて味わいましょう。
③この聖書の神は私たちを「エジプトの国、奴隷の家」つまり悪魔や支配者など、神ではない存在の支配下の中にいる者たちを神のご支配の元へと救い出して下さる神だということが語られています。この世界の数えきれないほどの人が、創造主なる神が存在することを真剣に理解しようとせず、その神がどのような存在なのか、そして何を我々人間に期待しておられるのか、さらには私たち人間にどのような生きる使命と役割を果たすようにご計画しておられるのかを無視して生きています。これほどの悲劇は本来存在しないのではないでしょうか。その存在を一番知らなければならないお方、その考えを一番知らなければならないお方のことを多くの人は知らずに生きているのです…。そのような状態こそ、神が語る「エジプトの国、奴隷の家」なのではないかと思います。神はそこから一人でも多くの人を真実の神への知識と正しい関係の中へと神の側から導き出そうとして下さっているのです。
「わたしこそ、あなたをこの世の間違った考え方、生き方から救い、あなたを正しい人生へと導く神」それがこの呼びかけの言葉なのだと思います。
20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
>>>聖書の神のみを神として聞き従うこと。神の祝福はここから始まり、ここからしか始まらないことが示されています。
20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
>>>聖書の神だけを真の神とするために、まず最初に行動に移すべきことが明確にされています。私たちが現在持ってしまっているあらゆる偽りの神があることを自覚し、それをひとつひとつ生活の中から取り去ることを神は示して下さっています。あなたを神から遠ざけてしまうものはなんでしょうか。それを考えてみるとわかると思います。また、神を悲しませるあなたの生き方、考え方、行動にはどんなものがあるのか考えてみてもわかると思います。それが偶像を造るという意味です。実際に自分の手で偶像を造ることだけを言うのではなく、むしろこの聖句が私たちに示しているのは私たちが心理的に、そして気を付けていないと日常的に造りだしてしまう偶像のことを語っているのではないでしょうか。
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
>>>私たちの神は「情熱の神」だと神は自らを表現し、私たちにご自身がどのような神かということを伝えて下さっています。神には感情があるのです。そして、こだわりがあるのです。物事をどうでもいいと考える神ではなく、「これはどうしてもこのようにあってほしい」と強く願われる神であり、「人間は是非こうあってほしい」と私たち人間の生き方、あり方に無関心ではいられない「情熱の神」なのだということが表現されています。
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
>>>5節に言及されているように神を否む罪を犯す者には罪の罰が一定の範囲で子孫にまで影響を及ぼしてしまうことが警告されていますが、神との正しい関係の中にいる者への祝福は比較にならないほどに大きいことが語られています。ここに神の本心が現れているのではないでしょうか。自分の子どもを罰したい親がいるでしょうか。むしろ、少しでも多く祝福したいと願うのが通常の親であるように、神は私たちとの愛し合う関係、慈しみあう関係を深めたいと強く願っておられることが表現されています。
20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
>>>6節までに語られるような神だからこそ、神との関係や関わりを加減にすることを神は嫌われます。神は徹底的に人間を愛し、守り、導き、祝福しようとして下さる神です。そして、そのすべてを正しく受け入れること望まれている神です。いい加減な態度で神の愛や祝福を受け止めることは赦されません。主の名をみだりに唱えるとは、神を神として正しく受け止めず、神に正しい心で向き合わないことを言うのだと思います。祈りの時になれなれしく神に語りかけながら神に自分の要求を聞いてもらおうとするような態度も気を付ける必要があるのではないでしょうか。圧倒的な愛と正義と力に満ちたお方を前に、それに相応しい態度と信仰で神に常に祈ることを神は求めておられます。また、そのような態度で神に近づき、祈らなければそもそも神の祝福は私たちのものにならないのではないでしょうか。せっかく神が豊かに与えて下さろうとしている祝福を受け止め損ねているのは他でもありません。私たちの側の神への間違った姿勢であり、態度であり、信仰なのだと示されます。みだりにとは間違った態度で神に祈ろうとする者のことだと考えられます。いつも祈る際にはすぐに自分の要求を羅列するのではなく、主の祈りや十戒の模範に示されているように、まずは神がどのような素晴らしいお方なのかを黙想し、賛美する気持ちを高めてから祈りに向かうことが示されているのではないでしょうか。
20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
>>>このような神への正しい信仰と姿勢を維持し続けるための具体的な方法が次に示されています。神の恵みをひたすら感謝し、礼拝する日を毎週大切にする生活習慣こそが原点だということです。安息日とは安らかな息をする日と書きます。私たちは真にそのような日を毎週日曜日に持っているでしょうか。見せかけのものでは安息日になりません。真実、神の前にゆったりとした時間・心の状態を造ってこそ、安息日であり、日曜日なのだと示されます。「これを聖別せよ」という言葉には私たちの努力や戦いも含まれます。簡単なことではない現実があることでしょう。それでも、神の御前に正しい心を向け、心安らかに神に礼拝するために最大限の努力を惜しまない生き方こそ、安息日を心に留め、聖別する生き方だと示されます。そして、そのように生きてこそ、神が望んでおられる神との関係に近づいていくことができることを神は私たちに教えておられるのです。
20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
>>>そのためには、私たちのあらゆる努力を傾けて安息日の前日までにすべきことを成し遂げる生活習慣を身に着けることが肝心だと示されます。別の言い方をすれば七日目はないものと考えて自分がすべきことをするための日は一週間に6日しかないという考えで生きるものいいかも知れません。そして、安息日は徹底して24時間、安らかな息をしながら神への礼拝に集中する生活を戦い取っていくのが真のあるべき姿なのではないでしょうか。
20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
>>>私たちの現実は到底神のこの要求には及ばないと思えるほど、かけ離れたものかも知れません。それでもそこに近づいていく努力は失ってはならないのだと思います。また、これは自分一人でする戦いではないことを弁える必要があります。安息日を神が求める真の安息日に近づけていくためには家族や周りの人の協力と理解が不可欠だということもここでは指示されています。
20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
>>>そして、何よりも忘れてはならないのは神自らがこの世界を創造された時からそのように模範を示し続けて下さっているということです。
20:12 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
>>>神を敬うことの集大成とは、自分の両親を敬い、大切にすることだと神は私たちに具体的な取り組み課題を示して下さっています。自分の両親を愛することも多くの人にとっては決して簡単なことではありません。また、これは自己評価だけで判断できるものでもありません。自分は両親を大事にしていると思い込んでいても、他人や両親から見れば、不十分なものとなっていることもあります。自分の生きる場所を神が与えておられるように、親も自分で選んでこの世に生まれたわけではなく、神が与えられた人生の出発点です。そこには神の深いご計画があることを覚えたいと思います。私たちの中には本当に子どもに愛情よりも、憎しみを向けて来た親もいることでしょう。そのような経験のある人にとってはなおさらこの第5番目の神の戒めは実行不可能のように思えるかも知れません。しかし、敵を愛し十字架の死に至るまで人間の不可能を可能にされるお方が私たちに自分の模範と教えに従いなさいと言われるのです。神が起こされる奇跡を信じて従いましょう。
平針教会時代にこのような奇跡を私はある教会員とその人の義母を通して可能だということを改めて確信しました。その姉妹はいつも義理の母に何をやっても褒められることはなく、要求ばかりされることに耐えきれなくなっていました。夫に先立たれた後もどんなに親切に世話をしても関係は永遠に変わらないように思っていたようです。しかし、家族の中で最後にクリスチャンになるのは間違いなく義母だと思っていたその当人が98歳で家族の中で最初のクリスチャンになりました。そして、少しずつ姉妹に対する感謝とねぎらいの言葉も口から出てくるようになったということです。人間の力にではなく、神の御業に期待して忍耐強く関わって参りましょう。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 隣人に関して偽証してはならない。
20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
今回は時間の関係でここまでにしたいと思います。これら十戒の後半部分もすべて人間関係において基本となる大切なものばかりです。そして、どれも神の御前で人間が違反し続けているものばかりではないでしょうか。私たちはこれらを本当に実行できる日が来るのでしょうか。神に従う者にはやがて天の御国において真に十戒が実現した世界に住むことが約束されていることを覚え、天国人に相応しい者となれるように共に励んで参りましょう。