「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピの信徒への手紙2:8,9)
きょうの箇所は、イエス・キリストを讃美する内容で有名な箇所です。簡単明瞭にキリストの生き方が要約されたこの箇所には、キリスト教の真髄が示されています。8節は「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした」といいます。無限の神が有限の人間になられることだけでも、御自分を低くされることなのに、さらに死に至るまで御自分を低くされたというのです。もうこれ以上、低くなれない、つまり死に至るまで、低くなられたのです。その死というのも、普通の死ではなく十字架での死なのです。そして、9節の「このため」という言葉は、イエス・キリストが見せてくださった謙遜な生き方がどんな結果となったのかを記しています。神は、イエスを高くあげ、名を与えられて、すべての膝がイエス様の前でひざまずき、すべての舌がイエスを認めるようになさったのです。徹底的に低くなられたイエスを、神が最高にあげられ、すべてのものの主となるようになさったのです。これがキリストの生き方であり、私たちが見倣わなければならない生き方なのです。
8月は、平和を覚えるときです。とりわけ今年は「戦後70年」という節目を迎え「真の平和」について考えさせられます。イエスは、当時の「パックスロマーナ(ローマ帝国による平和)」、つまり武力による平和に対して、「(私は)仕えられるためではく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20:28)と言われました。昨今の「パックスアメリカーナ(アメリカの武力による平和)」を支援する「積極的平和主義」が、あたかも「平和」であるかのように装っています。今こそ、「下へ向かって昇る」イエスの生き方による平和こそが、真の平和をもたらすということを改めて覚えることができればと願います。