3つ目の「わたしは・・である」の「命」について、考えてみましょう。
3:16 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と、4:14、6:35、6:54で「永遠の命」を与えると宣言されています。
「永遠の命」は生物学的観点からとらえた「不老不死」と言う意味ではなく、イエス・キリストの十字架によって罪から解放され自由を与えられて生かされている〝今〟の生活が「永遠の命」に与っていることなのであると思います。
創世記2章に「2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。「命」そのものである神が、聖霊を鼻から吹き入れることによって、土くれに命を宿らせてくださった、わたしたちは、そのようにして作られた〝神の作品〟なのです。
一方、「10:11 ・・。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」「15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ともおっしゃっています。
70年以上前、大戦が迫っている時、わたしたち教会は、大変大きな過ちをしました。
3:16の言葉が、国の大義、国民のために命を捨てることがイエス様の教えと矛盾しないと感じる世の中に、いつの間にかなっていたということなのです。サタンが、ガラテヤの信徒の手紙2:4のように、『・・キリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来て』いたのです。
わたしたちは地域にある教会として、地域にしっかりと目を向けていく責任があります。
わたしたちには、モーセやアロンの様に民をリードし、神との和解のために執り成す祭司としての役割と同時に、イザヤやエレミヤのように、主の前に正しくないことが行われようとしたら、声を上げていく預言者としての役割が求められています。
連盟から出される声明や抗議文は、聖書に立脚した活動であり、先の大戦で犯してしまった教会の罪の告白、痛烈な反省なのです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」の聖句は不幸にして都合よく利用され戦争を肯定することに用いられてしまいました。
この聖句を、15:15のイエス様の言葉「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」を受けて理解すると、「人の子イエスが、友であるあなた方のためにイエスご自身の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と、救い主イエス・キリストの愛の本質がここで告げられているのがわかるのです。