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主日礼拝宣教要旨

2015年6月21日 「罪からの脱出」 マタイによる福音書18章6~14節(斎藤信一郎牧師)

「罪からの脱出」2015年6月21日 マタイによる福音書18章6~14節

 

◆罪への誘惑

18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。

18:9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

 

今月は主の祈りの第五の祈り「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ」についてみことばに聞いています。主イエスは人を7の70倍するまで赦すように教えられました。そしてその理由も様々なたとえを通して私たちに明らかにして下さいました。これまでの学びで、私たちは被害者である前に神に対して償い切れない罪を犯すという加害者としての面も持ち合わせていることを学びました。その最たる罪の一つは人を赦さずにおくという罪だと分かりました。

人を赦せない者は神にも罪の赦しを受けることができず、天国に入ることもできません。その私たちの罪をあがなうために神がどれほどの犠牲を主イエス・キリストを通して請け負って下さっているのか、私たちの罪の重大さと神の犠牲の絶大さを自覚することから罪の赦しは始まります。そして今回の箇所より罪の深刻さと神の人類救済の真剣さを教えられます。罪の深刻さとは、この世で死刑になることよりも重く、どんな代価を支払ってでもこの世にいる間に解決しておくべきものだと主イエスは教えられました。死んでから罪を解決するのでは遅すぎるのです。

私たちは人の罪を赦す模範を示すように神から求められているにも関わらず、かえって人を赦さない模範ばかり示し続けている現実があります。その現実から一刻でも早く脱出するために、主イエスはこの世において私たちの身代わりに十字架にかかり、私たちが償い切れない罪を自らの上に背負われました。そして、十字架の上で主イエスの存在を赦せないために十字架に架けた人々の罪の赦しさえも神に執り成し祈られました。その主イエスの祈りの原点は第五の祈りの中にも含まれています。私たちが主の祈りを祈ることができるのは、このような主イエスが共に祈って下さるからだということを感謝しつつ歩んで参りましょう。

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