ヨハネによる福音書1章1~5節(~13節までを参照)「なお光は輝く」
総合テーマ 神の子となるための条件
黙想のポイント
その1 今月は神の子となるための条件について共に理解を深めましょう。神の子とは直接的にはイエス・キリストのことを指しますが、私たちもキリストのように神の子となっていくことができる(1章12節等で明確に示されている)ことをヨハネ福音書は教えています。あなたは神の子としての自覚があるでしょうか?ヨハネ福音書で強調されている神の子となっていくために必要なものはなんでしょうか?共に考え、分かち合い、実践していきましょう。
その2 それでは今回の箇所からは神の子となっていくためには何が必要だと示されるでしょうか?「言」や「光」や「命」がその本来の役割を発揮できないのはどのような時かを考えてみましょう。そうすることによって神の子となっていくことの障害物を取り除いていく必要に気づかされて行きたいと思います。
今月の方針
・聖書教育誌では今月は1章から4か所抽出して学ぶことになっていますが、ここでは次のように範囲を再設定し、1章全体を範囲に入れ、4つに分けて学んでいくことにします。
12/06…1章1~13節、12/13…1章14~28節、12/20…1章29~42節、12/27…1章43~51節
*参考までに聖書教育の範囲の部分は青字で表記しています。
◆言が肉となった
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
>>>ヨハネ福音書の出だしは旧約聖書の創世記1章の出だしを意識したものとなっています。
1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 ➡同じカギになる言葉が多く登場します。
そして特に今回の箇所では「言」という字が特徴的です。通常私たちが用いる「言葉」という字ではなく、葉(枝葉末節)の字がない「言」という一時で表現することにより、ここで語られている「言」とは私たちが通常用いる言葉とは区別され、神に属する特別純粋な言だということが強調されています。また、この「言」は人格的な存在として表現されており、イエス・キリストを指し示していることはお分かりのことと思います。イエス・キリストは神のご性質そのものだということが強調されています。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
>>>すべてこの世にあるものはイエス・キリストのご性質を豊かに受けて創造されたことが語られ、その中には確実に私たち人間も含まれていることを受け止めたいと思います。そしてキリストの内には私たちにとって必要不可欠な「命」が宿っており、その特別な「キリストの命」は私たちの内面と人生を照らす「光」として私たちを真に生かすことが語られています。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
>>>光は暗闇の中でこそ輝く(=力を発揮する)という真理が表現され、私たちに期待されていることの一つだと示されます。また、闇の存在は光の存在を際立たせますが、闇そのものは光を受け入れることはなく、光の役目を理解しないと語られます。私たちは光としての役目を果たしているでしょうか。それとも、その役割を理解しない闇のような存在に同調して生きているでしょうか。そのような問いがここにあるように思います。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために(神から遣わされて)来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって(キリストを)信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
>>>ここで登場するヨハネとは言うまでもなくヨハネ福音書の著者ヨハネではなく、この後バプテスマのヨハネのことが語られます。このヨハネとは実は私たちの役目を指し示しているのです。「ヨハネ」や「彼」というところに「自分の名前」を入れて読んで見ると良いでしょう。また、「光」のところに「キリスト」と読み替えて読んで見て下さい。より身近な内容になってくるはずです。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名は(自分の名前)である。
1:7 (自分の名前)は証しをするために(神から遣わされて)来た。(キリスト)について証しをするため、また、すべての人が(自分の名前)によって(キリスト)を信じるようになるためである。
1:8(自分の名前)は(キリスト)ではなく、(キリスト)について証しをするために来た。…となります!
1:9 その光(=キリスト)は、まことの光(=救い主)で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言(=キリスト)は世にあった。世は言(キリスト)によって成ったが、世は言(救い主)を認めなかった。
1:11 言(=救い主)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言(キリスト)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
>>>ここで少しほっとさせられるのは、キリストを信じた途端に私たちは神の子となるというような表現ではなく、むしろ神の子となっていく、あるいは徐々に神の子とされていくという表現になっていることです。新共同訳では「神の子となる資格」、口語訳では「神の子となる力」、新改訳では「神の子となる特権」が神から与えられると表現されている箇所です。
1:13 この人々は、①血によってではなく、②肉の欲によってではなく、③人の欲によってでもなく、④神によって生まれたのである。
>>>最後にそれぞれ、どのような意味なのか考えて見ましょう。
① 血によってとは神の子となっていくのはどのような国や人種や家柄に生まれるかということは一切関係ないことが語られているのではないでしょうか。
② 肉の欲とは間違った動機によって獲得していくことができないことが表現され
③ 人の欲とは人間の努力や知恵を絞って何かの手段を用いて獲得していくことができるものではないと。
④ そうではなく、神の子と変えられていくのは…神(イエス・キリスト)との関わりの中で神の側の働きによって変えられていくものだということではないかと示されます。
*神の子とされていくことは、信仰から始まります。また信仰も初めから完全に与えられる分けではありません。
クリスチャンになる時も、なった後も、常に次の祈りを神様に告白できる者でありたいと思います。
「神様、私をキリストによって導いて下さっていることを感謝します。私は未熟な者です。どうかキリストの考え方、生き方、あなたへの信仰と人々への愛の実践を自分のものとしていくことができますように今日もお助け下さい。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。」アーメン