エレミヤ書24章1~10節「良いいちじくと悪いいちじく」
総合テーマ 本当に大切な信仰とは?
黙想のポイント
その1 いちじくの木が何を象徴しているのか、聖書に出てくる他の箇所もヒントにしながら黙想しましょう。
その2 どんな状況の中にあっても神の導きとご計画の中にあることを黙想しましょう。
◆良いいちじくと悪いいちじく
24:1 主がわたしに示された。見よ、主の神殿の前に、いちじくを盛った二つの籠が置いてあった。それは、バビロンの王ネブカドレツァルが、ユダの王、ヨヤキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後のことであった。
>>>紀元前597年頃のことと考えられています。
24:2 一つの籠には、初なりのいちじくのような、非常に良いいちじくがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくが入っていた。
>>>いちじくはしばしば聖書でたとえに用いられる植物です。敬虔なユダヤ人はいちじくの木陰で聖書を朗読することもあったようです。ヨハネ福音書1章でナタナエルがしていたのもそのようなことだと考えられます。また、
主イエスがエルサレムに入場する際に木に実がなっていることを期待したのもいちじくの木でした。
24:3 主はわたしに言われた。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは言った。「いちじくです。良い方のいちじくは非常に良いのですが、悪い方は非常に悪くて食べられません。」
24:4 そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ。
24:5 「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。
>>>良い方のいちじくが実は捕囚になったイスラエルの民の方でした。神の預言通りの裁きになることと、イスラエルの民が神から見捨てられることとは別のことでした。たとえイスラエルの民が神に背いてその裁きを受けたとしても、神に見捨てられるという意味ではなかったのです。そもそもこのような結果が起きる可能性についてはエジプトからモーセによって荒野に導き出された時点で神がモーセを通して預言されていたことであり、神の教えに従い、偶像礼拝から離れて生きれば永遠の祝福に生きることができ、もし神への信仰を捨てて偶像礼拝に生きれば国は亡びると定められていたのです。神の側はその約束の基準に従ってイスラエルの民を裁いておられるのであって、もともと神に背けばイスラエルの民を永久に見捨てるという預言ではありませんでした。
24:6 彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。
24:7 そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。
>>>民に与えられる試練はすべて神に正しく信仰を向けるための避けて通れないものだったことが明らかにされます。
24:8 主はまたこう言われる。ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。
24:9 わたしは彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。彼らはわたしが追いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。
24:10 わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす。」
>>>彼らは神が望まれたようにバビロンに降伏することを最後まで抵抗した人々だったのでしょうか。中にはエジプトにむしろ加担していた者たちもいたようです。結局彼らにはバビロン捕囚に遭うよりももっと厳しい神の裁きが待っていました。そのことが予めエレミヤによって何度も預言を通して警告されていたのです。彼らは神の言葉に最後まで依り頼まずに自分の判断で自分を救おうとした者たちでした。
*彼らが神への信仰を全く持っていなかったわけではありません。きちんとエルサレムで礼拝も捧げていたことでしょう。どんなに自分の評価では信心深い生き方をしていると思っても、神の目に正しい生き方と信仰を本当の意味で育てて来ているかということは別のことだと教えられます。当時の人々は特に各国の偶像礼拝を許容していたことも考慮に入れると、やはりもう一度悔い改めて初めの信仰に立ち返らなければならない状態にあったと言えるでしょう。神の御心とご計画はイスラエルの民に対してバビロニア帝国の支配と試練の中で神への信仰を再度取り戻すことにあったようです。因みにバビロニア帝国にエルサレム神殿の様々な礼拝祭具類が没収されて行きましたが、エズラ8章24節以降に書かれている通り、エルサレムの神殿が再建される時に神殿を再建するための金銀祭具類までがアルタクセルクセス王の命令によって一定額無償で寄託されているのですから、神の遠大なご計画と配慮は計り知れません。神の救いへの情熱と忍耐の大きさに感謝したいと思います。