エレミヤ書20章7~9節「押さえつけておけない主の言葉」
総合テーマ 本当に大切な信仰とは?
黙想のポイント
その1 主なる神に忠実に従って生きようとしたエレミヤでしたが、主に忠実に従って生きることは彼の安全や生活の安定や名誉を保障するものではありませんでした。むしろ、エレミヤの場合には主に忠実に預言者として従うことは人々を怒らせ、人々から嫌われることを意味していました。その使命に従うことに少なからず疲れを覚え、落胆するエレミヤの正直な姿があります。あなたには主イエスに従うがゆえの犠牲や疲れはこれまでなかったでしょうか。
その2 クリスチャンにさえならなければもっと楽に生きられたのにと考えてしまうことはないでしょうか。しかし、心の奥底では自覚しているのです。クリスチャンだからこそ、このような苦しみや試練を通らされているのだと。圧倒的に大多数の者がキリスト教の神を信じないで自分勝手に生きている世の中において、クリスチャンとして生きる面倒くささを実感しながらも、神の憐みによって奇跡的に救われてしまった者として、私たちは今を生きています。そのような私たちに神は今のこの時代の人々にどのように神の言葉を語るように導いておられるのでしょうか。聖書教育誌の「話し合いのポイント」でも語られているように、私たちは神様と人々に「本心の叫び」を向けているでしょうか。
◆エレミヤの告白
20:7 主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。
>>>エレミヤの弱気な発言が、私たちに様々なこの世でクリスチャンとして生きる上での不便な記憶を呼び起こします。エレミヤは自分とは違った信仰理解に生きている人々が圧倒的に多いただ中で非常な孤独と疲れを覚えていることが伺えます。自分が信じて仕えている神と周りの人々の信仰理解が違う時の孤独感と周りの人々から受ける阻害感にエレミヤも耐えきれなくなっているように伺えます。時にはそれは家族の中でも大きな心の距離を造りだしてしまいます。もっと周りの人々のように世の中の様々な宗教に同調して溶け込み、妥協さえすればあるいはこのような思いから解放されるのではないかとさえエレミヤも一時的には考えたのではないでしょうか。一体なにが「あなたの勝ち」なのでしょうか。エレミヤの神に向ける精一杯の皮肉のように聞こえます。ぼやかずしはいられないエレミヤの姿に彼の等身大のクリスチャンとしての姿を見る思いがします。
20:8 わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。
>>>人々からのきつい罵声にせよ、力づくの暴力にせよ、エレミヤが忠実に神の言葉を語ろうとすると絶えず災難に遭っていたエレミヤの姿があります。クリスチャンとはこのように迫害に合わねばならないものなのでしょうか。もしだれもがこのような体験をしないといけないとしたら、私たちの中にはクリスチャンにならなかった人も
いるのではないでしょうか。…その一方で、エレミヤのような、あるいはエレミヤ以上に人々から言葉の暴力も実際の暴力も受けた方を思い浮かべます。イエス・キリストです。
20:9 主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
>>>もうこれ以上クリスチャンとして生きるのはやめようと思うことはないでしょうか。クリスチャンとして生きることに疲れを覚えたことはないでしょうか。エレミヤにはありました。しかし、もはや後戻りすることもエレミヤには不可能になっていることにエレミヤ自身は気づいていたようです。(イエス・キリストの犠牲的な)神の愛を知ってしまったからです。神の前にへりくだって自分の負けを認める時、あらゆる状況の中で再び立ち上がることができる信仰と希望と愛が疲れ切った心と体の中に主から注がれていく。それがクリスチャンなのかもしれません。神への正直な訴えこそ、時には私たちの信仰のもやもやを解決する近道になることがあります。あなたはこのような体験をしたことはないでしょうか。苦しいところから開かれる信仰の新たな扉があることを主に感謝したいと思います。