エレミヤ書13章1~17節「麻の帯とぶどう酒のかめ」
総合テーマ 本当に大切な信仰とは?
黙想のポイント
その1 ある行動を取る理由がわからなくても、神の教えに信頼して実行に移し続ける信仰を持つことの大切さを学びましょう。
その2 悔い改めて神に立ち返ることをどれほど神が望んでおられるのか黙想しましょう。
◆麻の帯とぶどう酒のかめ
13:1 主はわたしにこう言われる。「麻の帯を買い、それを腰に締めよ。水で洗ってはならない。」
>>>預言者には神の指示の意味や目的が示されず、意味がわからないままに信じて実行しなければならない命令が度々ありました。私たちにはそのような覚悟はあるでしょうか?
13:2 わたしは主の言葉に従って、帯を買い、腰に締めた。
>>>主の御言葉に従うために、エレミヤは自分の財布からお金を出して帯を買いました。すべてがその都度与えられるわけではなく、あらかじめ与えられている中から自腹を切って神の言葉に従うのです。また帯を買うため、また着るための行動を取る必要がありました。神に従う者とは、ただ神の言葉を聞いて信じる者ではなく、聞いて行う者だという主イエスの言葉を思い出します。
*ルカ福音書8章21節 「するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。」
*ヤコブの手紙 1章22節 「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」
13:3 主の言葉が再びわたしに臨んだ。
13:4 「あなたが買って腰に締めたあの帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい。」
13:5 そこで、わたしは主が命じられたように、ユーフラテスに行き、帯を隠した。
>>>またもやわけがわからない神の言葉がエレミヤに与えられました。理解に苦しみます。しかしエレミヤはその指示に忠実に従いました。
13:6 多くの月日がたった後、主はわたしに言われた。「立って、ユーフラテスに行き、かつて隠しておくように命じたあの帯を取り出しなさい。」
>>>神の指示の真意は時にはすぐに示されないこともあります。何年経ったのでしょうか。忘れた頃に神の指示が再び示されます。
13:7 わたしはユーフラテスに行き、隠しておいた帯を探し出した。見よ、帯は腐り、全く役に立たなくなっていた。
>>>あまりにも長い期間条件の悪い岩場に置いておいたために帯は腐って使い物にならなくなっていたといいます。なぜ、こんな無駄なことを神はエレミヤに命じられたのでしょうか。ここにどんな教訓があるのでしょうか。
13:8 主の言葉がわたしに臨んだ。
13:9 主はこう言われる。「このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。
13:10 この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。
13:11 人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」と主は言われる。
>>>やはり、エレミヤに実行に移すように神が求められたことには、深い意味がありました。ひとつの教訓として神は帯を岩場に長期間放置させたのでした。その真意とは、帯は本来人間の腰に締めて身に着けるために用いるものです。しかし、本来の目的のために用いられずに長期間条件の悪い岩場に放置されれば帯はやがて使い物にならなくなっていきます。その意味はこうです。先にエレミヤに締められていた帯の状態は神に結びついていた時の状態を示します。岩場に放置されていた状態とは、神とのあるべき関係を離れ、岩場で象徴される岩で作られた偶像に長年仕えるならば、やがて本来の目的である神に用いられるために全く役に立たなくなってしまうことを暗示していました。すばらしい目的のために、私たちを豊かに用いて下さろうとして神がご計画しておられても、それに従わない者の結末のむなしさと神の口惜しさが表現されています。
13:12 あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。「イスラエルの神、主はこう言われる。かめにぶどう酒を満たすべきだ」と。すると、彼らはあなたに言うだろう。「かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでも言うのか」と。
>>>これは人々が神が伝えようとされる言葉の真意を理解しようとせず、傲慢にも神に口答えする愚かな人々を象徴しているものと考えられます。たとえばここで言われているかめとは神に捧げるべきぶどう酒のかめだとしたら、どういうメッセージになるのでしょうか。ぶどう酒とは神に捧げるべき民の祈りと礼拝の心ということになります。そのカメが十分に満たされないでいることが神によって訴えられているのです。民はそれを理解せず、しかも実際には神に心を注ぐべきところを偶像礼拝に心を注ぎ続けてそちらのカメばかりを満たしていることに気づかず、神の言葉を喜ぶどころか、神の言葉に対して不満をぶつけるような民の姿が表現されているようです。このようなことを悔い改めもせず、開き直り、長年続けているイスラエルの民に対してついに神は前から忠告して置いた現実がすぐそこまで来ていることを宣言されます。しかも、それは神の側では大きな痛みを伴って…!
13:13 あなたは彼らに言いなさい。「主はこう言われる。見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびエルサレムのすべての住民を酔いで満たす。
>>>まるで積極的に神がこのようなことを行おうとしているようですが、そうではないと後に述べられる神の心情から分かります。これは神が予めイスラエルの民との間で取り交わされた契約に従って神が実行すると言われていたことを実行に移すことを宣言されていると解釈すべきでしょう。その対象はイスラエルのすべての王とすべての住民に及ぶことが示されています。神の目に悪と移り、神に従わなくなっているのは国全体だということもこの言葉からわかります。
13:14 わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と主は言われる。
>>>この神の語る言葉の背後で神がどのような心境でこの言葉を語っているのか黙想しましょう。これは決して怒りに任せて語っておられるのではないことが理解できるでしょうか。涙を流しながら、歯を食いしばりながら、声を震わせながら語っておられる神の言葉として…。
13:15 聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。主が語られる。
>>>この宣言の言葉に神が完全にはイスラエルの民を諦めていないことを読み取ることができるでしょうか…。本当に最後が来た時には、神の滅びの警告を実行に移すだけなのです。今がまだその時ではなかったことに感謝しましょう。しかし、油断は禁物です。
13:16 あなたたちの神、主に栄光を帰せよ/闇が襲わぬうちに/足が夕闇の山でつまずかぬうちに。光を望んでも、主はそれを死の陰とし/暗黒に変えられる。
>>>私たちの悔い改めを心から望み、訴えておられる神の言葉が私たちの心にも響いてくるでしょうか。今をどのように捉え、神に向き直って生きるかが将来に大きく影響することに私たちは気づき、立ち上がって行動に移す必要があるのです。今こそ、聖書の神を信じているなら、主イエス・キリストを信じている者にふさわしく生き直す時だと主は最後の呼びかけをしておられます。
13:17 あなたたちが聞かなければ/わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ。
>>>主イエス・キリストは十字架で極限の苦しみを受けられた後、まさに陰府という隠れたところで人類の傲慢のために泣き、魂が枯れるほどに苦しみを担われたお方です。このお方をこれ以上どうして苦しませていいでしょうか。ただ悔い改めるのみです。神の御前に傲慢ではなく、遜(へりくだ)ること、それしかないではありませんか。共に主の憐みを受ける者となりましょう。主イエス・キリストの御前にひざまづき、祈りましょう。
*聖書は神の憐みによってすべての人が例外なく救われるというようなあまいことを教えていないことがこの箇所からも理解できると思います。本気で神の教えと生き方に立ち返り、主イエス・キリストを通して罪の赦しのバプテスマを受けない傲慢な者に最後に待っているのは、神が初めから警告しておられる裁きと滅びです。しかし、神は16節の結末を一人でも多くの者が迎えることがないようにと願い、救い主イエス・キリストを通して今もなお、私たちに働きかけておられます。主イエス・キリストを通して神に立ち返ること。これ以外に真の救いはないというのがこの3千年間聖書が主張し続ける真実です。クリスチャンもそうでない方もこの真理に耳を傾ける時となりますようにお祈りいたします。