エレミヤ書7章1~15節「主の神殿の門に立ち」
総合テーマ 本当に大切な信仰とは?
黙想のポイント
その1 いつの間にか礼拝への正しい姿勢を見失っていないか振り返りましょう。
その2 今すぐにでも正すべき礼拝の姿勢はないか黙想しましょう。
◆神殿での預言 7章からヨヤキム王の時代…
7:1 主からエレミヤに臨んだ言葉。
7:2 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。
7:3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
>>>礼拝するために神殿に訪れた礼拝者にエレミヤは神の言葉を預言しました。その内容は決して聞いてうれしいものではなかったはずです。人生の目的と生き方を礼拝から始めて神の前に正しなさいという内容でした。また、そうすれば「この所」(6節冒頭でもう一度登場する「この所」が指し示している内容を合わせて黙想しましょう)つまりエルサレムは無事で済むと神は告げました。しかし、逆に言えばこのままだと神は民をエルサレム(人類無二の礼拝の場所)から追い出すという厳しい警告でもありました。
7:4 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。
>>>エルサレムの神殿は特別にイスラエルの神が建てるように命じた神殿なのでここには主なる神の特別なご加護があると当時の民は信じていたことが伺えます。
7:5 -6この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。
>>>しかし、神が置かれる礼拝場所では特に神の御前に自らの過ちと罪を認め、悔い改めて生きる姿勢を神に示しながら礼拝することが常に求められているにも関わらず、人々はいつの間にか神を侮(あなど)り、礼拝を侮り、神の教えに生きず、最も神が嫌う偶像礼拝にふけりながら、神殿に来て礼拝している現実が語られています。神は遙か以前から…つまりイスラエルの民がエジプトの地からカナンに移り住む時に…繰り返しこのような事態になってしまった場合には必ずイスラエルの民を裁き、イスラエルの地から追い出すことを警告していました。とうとう約束通りそのようにしなければならない時が近づいてしまっていたのです。エレミヤは最後の警告を神から託されて語っていたのです。私たちは大丈夫でしょうか?いつの間にか様々な自分勝手な異教の教え、つまり偶像礼拝を主の日に導入してしまってはいないでしょうか。自らの礼拝の在り方を冷静に見つめ直して正すべきところがないか他人の振り見てわが身を正したいと思います。
7:7 そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。
>>>今、イスラエルの民に必要だったのは反省すべきは反省し、直すべきは直して生き方と礼拝に込める心を神の目に正しいものに戻すことでした。そうしさえすれば、もともとの約束は継続されるはずでした。
7:8 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
>>>「私たちは世界無二の本物の神殿で、本当の神を礼拝している者たちだ!」という自覚のことでしょうか。
7:9 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、
>>>それならば、なぜ最も忌み嫌うこれらのことをこの神殿の中で目にするのかと神は問います。私たちの礼拝の中にこれらが見え隠れする機会は本当にないのでしょうか。目に見えない心の領域も含めてどうでしょうか?
7:10 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。
>>>神が願っている「救い」とは当時のイスラエルの礼拝者たちが喜んで「救い」とは違っていたことが示されます。しかも、彼らは「救われた」と過去形で語るところにも考えさせられるところがあるのではないでしょうか。
7:11 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。
>>>イエス・キリストが神殿商人たちに語った言葉と良く似ていることにお気づきでしょうか。主イエスはこの箇所を念頭にしながら語ったことがわかります。
7:12 シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。
>>>シロはベテルの北方にあった礼拝場所で北王国イスラエルが用いていた場所。
7:13 今や、お前たちがこれらのことをしたから――と主は言われる――そしてわたしが先に繰り返し語ったのに、その言葉に従わず、呼びかけたのに答えなかったから、
7:14 わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、わたしはシロにしたようにする。
7:15 わたしは、お前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちをわたしの前から投げ捨てる。」
>>>シロがあったのはエフライムの地でした。南王国ユダからは最も近い北王国の土地の一つで身近に感じた場所であったことでしょう。それがどうなったのかを神は思い出させようとされました。神はこれまで繰り返し語って来たと言われます。その通りにして来られたのです。神のこのメッセージは今日の私たちにも当てはまる部分はないでしょうか。神の御心を知っているはずなのに無視し続けていることはないでしょうか。各自黙想しましょう。
*私たちは最終的にはヨハネの黙示録等で約束されているように完全に罪を清められ、真に礼拝するのにふさわしい者にされ、新しい真っ白の衣を主イエス・キリストから与えられます。その時までは、主イエス・キリストが十字架の上で執り成し祈って下さった祈りと、私たちの罪を背負って黄泉にまで行って罰を受けてくださったキリストのあがないの恵みの中で、各自の罪と向き合いながら生きることになります。それがどれほど大きな恵みなのか、そして礼拝に出席させていただけることが日本ではどれほど大きな恵みなのか、忘れないでいたいと思います。私たちは「罪赦され続けている罪人」であることを主の日の礼拝ごとに確認することによって、礼拝者として神が招いて下さっていることの真の喜びを絶えず再確認し合いたいと願わされます。イエス・キリストの福音宣教の始めの言葉は「悔い改めて、福音を信ぜよ」でした。単に「福音を信ぜよ」ではなく、その前に「悔い改めて、」という言葉とセットになっていることの意義をもう一度再確認していきましょう。